編集後記「風蕭蕭」

2017年10月号 連載
by 知

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大島満吉さん

「ほとんど身内の人たちの誰かが死んでいるわけですね。その死に方が結局、親が子を手にかけてしまったとか。そういうことを日本に帰ってきてから言えないということがありますね」(興安街命日会の大島満吉代表・9月2日、日本記者クラブ『葛根廟事件の証言』上映会)

戦争を語り継ぐことの大切さを疑う者は少ない。だが、こと満州からの帰還者には、語りたくても語れない、どうしても言葉にできないという方が多い。

大島さんは映画ではこう話した。「戦車にやられたんだよ、銃撃に遭って死んだんだよとは違うんだよね。やっぱり親が手をかけざるを得なかったんです。親がまたね、生き残るつもりがなかったのに生き残ったという、そういうことはね、どうしても、どうしても割り切れないんですよ」

1945年8月9日、日ソ中立条約を破って突如侵攻してきたソ連軍。興安街は10日に空襲が始まり、関東軍関係者は貨物列車で先に移動。壮年までの男性は召集されていたので、老人と女性と子供だけの徒歩での逃避行となった。

そして14日、ラマ教寺院「葛根廟」まであと4kmほどの山裾で戦車隊に捕捉され、殺戮された。迫り来る恐怖に、多くの母親が絶望し、幼子を自分の手で殺した。

千人もの人が命を落としたとされるこの惨劇は、関係者の間では語り継がれ、1976年には書籍も出されたが、多くの人に知られることはなかった。社会も詳しく聞こうとしなかった。

この映画も、かけてくれる映画館がまだ見つかっていないそうだが、監督が田上龍一さんという43歳の新進気鋭であることは一筋の光明だ。80歳前後となった大島さんたちの心の底から絞り出すような証言を次世代の表現者が映像に掬って、つなげた意義は大きい。事実を掘り起こし、歴史を刻む執念が心に湧き上がった。

 「大崎病院東京ハートセンターとの和解について」

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