編集後記「風蕭蕭」

2017年8月号 連載

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「こういった事件、強姦、準強姦の被害者がやはり、顔を隠してもらわないと話せないという状況にすごく疑問を抱いていて、警察の取り調べを受けているときも『被害者らしく振る舞いなさい』という言葉を使われたことがあります」

(詩織さん:5月29日の記者会見)

時に「一強」と称せられた安倍晋三首相が、森友や加計の問題で坂道を転げ落ち始めた瞬間である。

礼賛本を著せるほど首相に近い元TBS記者の山口敬之氏が、準強姦容疑で裁判所から逮捕状が出ていたのに、菅義偉官房長官の秘書官だった警視庁幹部の判断で逮捕されず、検察も不起訴とした。

詩織さんがこの処分を不服として審査を申し立てた検察審査会が処分の妥当性を判断することになるが、関係者にこれだけ「時の人」が並んでは、衆目は自ずと、安倍政権側から警察の捜査に対し不当な力が加わったか否かに集まる。

検察審査会がもし不起訴不当や起訴相当の判断を出せば、詩織さんの記者会見を黙殺した大手新聞も堰を切ったように報道し、世の中は大騒ぎとなるのだろう。

そうなってもならなくても、落ち着いて考えたいことがある。詩織さんがテレビに顔が映ることを臆せず記者会見に臨んだ本来の意義についてである。

どうして性犯罪の被害者は恥じ入らなければならず、自らの主張を堂々と述べてはならないのか。殺人や強盗で語られない「落ち度論」が、なぜ性犯罪では語られるのか。身内の人間も警察もどうして端から泣き寝入りを勧めるのか。

人の道からして変えねばならない、一人ひとりの心の内面、社会の状況は山のようにあるのではないか。詩織さんの決断がつくったこの瞬間を無にしてはならない。

デジタル空間の文字がコミュニケーションの第一手段になりつつあります。新コラムは記憶に留めたい「言葉」をクリップします。(知)

   

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