蓮 舫 氏 氏
民進党代表
2016年12月号
POLITICS [インタビュー]
聞き手/本誌編集長 宮嶋巌
1967年生まれ。青山学院大法学部卒。88年クラリオンガールに選ばれ、芸能界デビュー。報道キャスターを経て、2004年参院東京都選挙区初当選(現在3期目)。行政刷新相、民進党代表代行などを歴任。9月の代表選に勝ち、初の女性代表に就く。双子の長女と長男は海外留学中。
――「早期解散」の風がやみません。
蓮舫 我が党は巨大与党の3分の1に満たない、常に挑戦し続けるサイズです。何としても仲間を増やしたい。総選挙は望むところ。それが蓮舫の責務です。
――しかし、最大の支援団体「連合」とギクシャク、ぶつかっていませんか。
蓮舫 ぶつかっていませんよ。自民党幹事長と神津連合会長が会食したと報じられましたが、労働界のナショナルセンターが、自分たちの政策実現のために、様々な政治のパワーバランスに働きかけるのは、当然のことです。一部の報道で、地域の連合と我が党の総支部長(衆院選候補)の間に不必要な誤解が生じるのは、お互いにとってプラスになりません。
――連合は「共産党はノー」と言い、共産党は「連合に従うか野党共闘か、民進党は態度を決めよ」と迫っています。
蓮舫 我が党は今、全ての選挙区に候補を立てようと努力していますが、与党対野党のシンプルな形が、有権者にとって選びやすく、わかりやすい。巨大与党に立ち向かう野党候補の一本化を促進します。とはいえ、「選挙協力」はゼロか100か、そんな単純なものではありません。その時々の政治状況や地域の選挙情勢に応じて、お付き合いは「オーダーメイド」でやらないとうまくいかない。全国ベースの選挙協力をガチガチに固めると、一カ所での不具合が、全体の枠組みの瓦解に繋がる恐れもあります。市民運動の皆さんとの関係を含め、野党連携の足元を崩してしまったら、元も子もないと思います。また、我が党の綱領には「『働く者』の立場に立つ」とあり、これまで政策協議を重ねてきた連合の皆さんとの緊密な関係は不変です。「二者択一」ではありません。時々の各地の選挙情勢を睨んだ、きめ細かなオーダーメイドの対応こそが、蓮舫流の野党共闘です。
――代表就任から全く休みなしですね。
蓮舫 いつも全国の仲間の応援に飛び回ってきたから、特に忙しくなったとは思いません。「女性初」「失敗できない」というプレッシャーのほうが大きい。
――少し痩せたんじゃありませんか。
蓮舫 いやー、体重は落ちていません。双子の子どもが高校生に上がり、お弁当を作らなくてよくなってから、2日に1度10㎞のランニングを始めました。今は走らないと、身体が怠けてると感じます。
――蓮舫さんに手続き上のミスはあったけれど、一部メディアの「二重国籍」叩きは、非常に後味の悪いものでした。
蓮舫 私の記憶に頼った発言の一貫性のなさは、全くご指摘のとおりであり、申し訳なく思います。そこから私は多くを学び、深く考えさせられました。
我が国が戦争に負けるまで、私の父(謝哲信)も(父方の)祖父母も日本人でした。同志社大学を卒業した父は、日本人の母(斉藤桂子)と結婚。日本で生まれ育った私は台湾語が話せません。17歳の時に国籍法改正により日本国籍を取得し、私の姓は「謝」から「斉藤」に変わり、結婚後は「村田」になりましたが、私は生まれた時から日本人として育ちました。蓮舫がダブルのルーツを持っていることは、この国で暮らす全ての人々の多様性を認め、共生社会を掲げる民進党にとってプラスになると考えています。
――「蓮舫」の名前を、日本人らしく変えようと思ったことはありますか。
蓮舫 蓮は平和を象徴する花であり、舫はもやい舟。泥の中でも蓮のような花が咲くようにと、祖母の願いが込められています。姓は三つも変わったけれど、蓮舫の名は不変でいい。
――厳しい父上だったそうですね。
蓮舫 何事もイエスかノーかはっきりしろ。家族で食事に行く時も「何が食べたい」と聞かれて「何でもいい」と答えたら「お前は家に居なさい」と置いていかれる。物心がついた頃から「5年後の自分を考えろ。何が足りないか見えてくるから」と言われ続けました。
高2の時は大学を卒業した後のことを考えて、法律事務所という就職先が見えてくる法学部を選びました。また、クラリオンガールから芸能界に入った時には、しゃべることか報道でやっていきたいと考えていました。その5年後には絶対留学をしたいと考え、実際に北京に語学留学しました。
――報道から政治家に転じたのは?
蓮舫 29歳の時に双子の子どもが小さく生まれて集中治療室に入り、圧倒的な周産期医療の人手不足を目の当たりにしました。2年間の子育ての後、仕事に戻り、「バタフライナイフ事件」や「切れる子ども」を取材しながら「何かがおかしくなっている」と悩んでいた時に、仙谷(由人)先生から「外(報道)からの行政監視より、内(国会)に入って法律を作ったほうが子どもを守れるよ」と言われ、ふっ切れました。私の子どもが幸せになっても同世代の子どもたちが不幸せだったら、その世代はうまくいかない。子どもは社会の宝です。
――福島第一原発を視察しましたね。
蓮舫 初めて現場を見て回り、いわきの仮設住宅も訪ねました。福島第一で働く6千人の作業員の半数は地元の方であり、同じ県民でありながら古里を追われた住民との分断に、心が痛みました。
原子力政策について、政府が丹念に国民の声を掬い上げたのは、民主党時代の「討論型世論調査」が最後。新潟県知事選でも明らかなように、「再稼働ありき」は全く通用しません。我が党は掛け声だけの「脱・原発依存」ではなく、実際に30年代までにどうしたら原発に頼らず、新エネルギーによって新しい産業・雇用を生んでいくことができるのか、具体的なロードマップを示します。授かった子どもの命が原点の蓮舫らしく「2030年代原発ゼロ」の旗を高く掲げます。
よく総理を目指すのかと言われますが、この先の道のりは、そんなに短くない。我が党はまだまだ苦しみの中にいます。でも、私が代表になったことで、多くの方が足を止めて話を聞いて下さる。漸くここまで来ました。野党らしく、蓮舫らしく尖った政策を打ち出し、勝負します。