奇跡の江戸絵画 『小田野直武と秋田蘭画』展

江戸時代の中期、秋田藩の若き武士たちによる西洋と東洋の美が結びついた珠玉の絵画が一堂に。謎の絵師、直武の魅力に迫る。

2016年12月号 INFORMATION
取材・構成/編集部 和田紀央

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重要文化財『不忍池図』小田野直武筆 江戸時代 18世紀(秋田県立近代美術館)【展示期間:11/16~12/12】

江戸時代の18世紀後半、「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀(おらんだ)風の絵画」は、今日「秋田蘭画」と呼ばれる。その中心的な絵師が小田野直武(おだのなおたけ)。その名を知らずとも、日本初の西洋医学書の翻訳『解体新書』の挿し絵なら、誰しも目にしたことがあるだろう。直武は、寛延2(1749)年、秋田藩角館(かくのだて)の武士の子として生まれ、幼き頃より類い稀な画才に恵まれた。安永2(1773)年、24歳の時に江戸に上り、当代随一の本草学者、平賀源内のもとに身を寄せ、翌年『解体新書』の挿し絵師に抜擢される。直武は源内が所蔵した西洋の書物の図像などを手本に遠近法や陰影法といった西洋画法を身につけた。さらに、当時の画壇で流行していた華やかな花鳥画の表現を学んだ直武は、拡大した近景と緻密な遠景を配した構図など、独特な特徴を持つ秋田蘭画の画風にたどり着いたとされる。西洋と東洋の美が融合した秋田蘭画は、同じく絵を得意とした秋田藩主の佐竹曙山(しよざん)、角館城代佐竹義躬(よしみ)ら、直武周辺の文化人にも広がったが、直武は突如、秋田藩から謹慎を命じられ、数え年32歳の若さで亡くなった。そんな直武の画業に迫る展覧会が今、東京・六本木のサントリー美術館で開催されている(2016年11月16日~17年1月9日)。

魅了する「不思議な空間表現」

『解体新書』(部分)杉田玄白ら訳、小田野直武画 安永3(1774)年(国立大学法人東京医科歯科大学図書館)【全期間展示】

本展を企画した学芸員の内田洸さんは「江戸で画才を開花させた直武は、秋田蘭画の制作にいそしみ、珠玉の作品群を遺しましたが、その生涯や死因は謎に包まれています」と言う。

直武にとって人生の転機は、江戸の天才、平賀源内との出会いに他ならない。安永2年、鉱山開発のために秋田藩に招かれた源内が江戸に戻った後、直武は藩主・曙山の命により、源内の居る江戸へ派遣されることとなった。源内との交友を通じて、直武は当代一流の蘭学者、杉田玄白、前野良沢らの知遇を得、彼らが企図する『解体新書』の挿し絵を描くことを託された。

「直武は原本の『ターヘル・アナトミア』だけでなく、複数の医学洋書の図像を詳細に写しています。解体新書が刊行されたのは、直武が江戸に出てわずか8カ月後。そのスピードは驚嘆に値します。本展では直武の挿し絵が、元の洋書の図と並べて展示されます」(内田さん)

1731年、長崎に来航した中国人画家、沈南蘋(しんなんぴん)の写実的な画風は全国に伝播し、京都の伊藤若冲や与謝蕪村などの絵師はもとより秋田蘭画にも非常に大きな影響を与えた。「源内の周辺には、江戸に南蘋派を広めた宋紫石という絵師がおり、直武に様々な技法を伝えたようです」(内田さん)

こうして生まれた秋田蘭画は、東西のリアリズムが結びついた実在感のある描写、近景を極端に拡大し細やかな遠景を配する不思議な空間表現が、今なお見る者を魅了する。『鷺図』をご覧いただきたい。「手前に鷺が大きく描かれ、奥に小さく遠景が描かれています。よく見ると実に面白い。意図的か偶然か、鷺が水面の虫を狙っているような構図に見せて、遠景に舞う鳥を描いています。武士らしい品格もあり、えも言われぬ静謐感が漂う絵ですね」(内田さん)

珠玉の逸品『不忍池図』を間近に見る

重要文化財『松に唐鳥図』佐竹曙山筆 江戸時代 18世紀(個人蔵)【展示期間:11/16〜12/12】

当時の江戸は蘭学が大流行り。「蘭癖(らんぺき)大名」と呼ばれる殿様が西洋文化や博物学に熱を上げた。秋田藩主・佐竹曙山もその一人で、東西の美が融合した秋田蘭画は、大名ネットワークの贈答品として愛好されたという。曙山の代表作『松に唐鳥図』は、赤いインコと淡く澄んだブルーの空が鮮やかだ。後に葛飾北斎や歌川広重の浮世絵にも使われた舶載のプルシアンブルーが一部に用いられているという。画面の下のほうには、遠景として船や対岸の樹々が淡く描かれ、空には小さく鳥が舞っている。

珠玉の逸品は、何といっても直武の代表作『不忍池図』。「この大きな絵の前に立つと、不忍池の前に佇んでいる気分になります。池の畔に大きな鉢が置かれる現実にはあり得ない奇妙な構図。目を凝らすと、芍薬のつぼみに実物大の小さな蟻が2匹。虫眼鏡で観察しながら描かれたのではないかと思われるほど写実的です。是非、本展にお越しになって、本物を間近でご覧ください」(内田さん)

江戸に上った7年後、直武は数え年32歳で亡くなり、同じ頃、源内も人を殺めた咎により獄死。やがて藩主・曙山も世を去り、秋田蘭画は画壇から消えた。それが再評価されたのは20世紀以降のことだ。直武が「世界に挑んだ7年」の画業を特集する本展をお見逃しなく。

   

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