ご学友が明かす天皇「明仁」の肉声

学習院高等科の社会の時間。明仁親王がふっと洩らした。「世襲の職業はいやなものだね」

2016年11月号 LIFE

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10月17日に第一回の会合が持たれた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は、水面下でメンバー選びが難航していた。「国立大学の教授ら、内閣府から打診のあった複数の識者がメンバー入りを断ったと聞いています。結果的にこれまで皇室問題についてほとんど発言していない、無難な人選になった」(宮内庁担当記者)

座長候補の今井敬・経団連名誉会長は安倍晋三首相の側近・今井尚哉秘書官の叔父で、小幡純子、清家篤、御厨貴、宮崎緑、山内昌之というその他の顔ぶれにも、皇室問題の専門家はいない。 宮内庁関係者の間では「天皇は今回の人選にご不満のようだ」という話が早くも囁かれ、第一回の会合直前まで「女性メンバーの一人が辞退するらしい」という情報が飛び交った。

官邸は会議発足前から「天皇陛下一代限りの、特措法で対応する」と各メディアにリークし、来年早々の衆院解散を狙う安倍首相の政治カレンダーに影響させないよう腐心している。

天皇側近からはそうした安倍官邸の姿勢に苛立ちの声があがるが、それを封じるように官邸は9月26日に宮内庁長官、10月1日に宮務主管を相次いで交代させた。とくに官邸首脳が、NHKの生前退位スクープの「主犯」(情報源の意)と名指ししていた宮務主管・西ケ廣渉氏の更迭は、「官邸はそこまでやるのか」と関係者に衝撃を与えた。

早くも波乱含みの有識者会議だが、その開催直前のタイミングで、天皇の学友で元共同通信社特別顧問の橋本明氏(83)が、『知られざる天皇明仁』(講談社)を出版、天皇の肉声を明らかにしている。

老成して陰々滅々な男

橋本明氏の近著『知られざる天皇明仁』

同書の原型は橋本氏が共同通信在社中、無署名で月刊誌『ざっくばらん』(並木書房)に寄稿していた連載だが、宮内庁担当記者の間では早くから橋本氏の筆と知られ、「天皇(当時皇太子)の実像に最も肉薄したもの」として代々そのコピーが受け継がれてきた、いわば「幻の一級史料」だ。なかに、こんな一節がある。

〈昭和二十五年一月十四日午後、東京は小雪まじりの冬景色に静まっていた。東京・目白の学習院高等科A組教室では林友春先生の社会の時間が淡々と進んでいる。憲法の講義であった。

中央付近に席を占めた明仁親王は隣席の橋本を見つめて、ふっと次の言葉を洩らした。

「世襲の職業はいやなものだね」。講義は天皇の項目を扱っていたのである。親王の表情に何かを読み取ろうとして、われ知らず狼狽した橋本の眼には、にこやかに微笑んでいるいつもながらの親王の姿が映った。屈託のなさが、かえって親王の深層部分を押し隠しているように橋本は思った〉(引用は同書より、以下同)

橋本氏は学習院高等科の担任教師から「(天皇を取材する)マスコミへの窓口は君があたるように」と指示されて以降、ときには天皇の怒りを買い、ケンカもしながら、現在まで濃密な人間関係を維持している。同書でも、「どんな時でも一命を投げ出す準備ができている友人の一人」と書いている。

同窓の橋本氏から見て、少年・青年期の天皇はどちらかといえば情緒不安定、暗い性格で、移り気、勉強嫌いだったという。しかし美智子皇后との結婚が、大きな転機となった。

〈同学年生の間で、皇太子(当時、以下同)ほど陰々滅々な男は他に見当たらなかった。老成して希望もなくくさり切っていた。

正田美智子との出会いがこうした皇太子を根本から変えた。電話を通じて積み重ねた会話の中で明仁親王は「どのような時でも公務が優先する」と信念を語ったが、たった一回「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」、ポツリと漏らされた。悲痛な響き、籠められた寂しさの吐露こそ正田美智子の心を抉ったのだった〉

美智子皇后との結婚によって自信をつけた天皇は、ときに「蛮勇」とも言えるような決断力を見せるようになったという。

「官邸の道具」ではない

昭和42年の南米訪問時、日系ブラジル人家庭訪問を希望したが、駐ブラジル大使は拒絶した。「日系人は多くの地域に分散し、1カ所だけを訪問するのは無理でございます」というのだ。

〈彼は反乱を起こす。まだ夜のトバリが深々とおりる午前四時すぎ、朝弁当を用意させ、二台の車の準備を命じたのだ。同行記者にはもちろん内緒である。宿舎をひそかに抜け出した皇太子一行は、ちょうど東京から熱海ぐらいの距離にある日系人開拓村に向けてひた走った〉

早朝の開拓村に突然現れた天皇に、日系ブラジル人は驚喜した。

「急に訪ねてきて申し訳ない。しかし皆さんに会いたかった。会うのが念願だった」

天皇はそう伝えた。

〈帰途は車を猛烈に飛ばした。朝の行事に何食わぬ顔をして間に合わさなければならない。

ところがだ。皇太子の乗用車がエンコした。動かなくなった。皇太子は乗り捨てて後続の車を止めた。哀れにも侍従はつまみ出される。急遽、乗り換えた皇太子はニヤニヤしながら威勢よく叫んだという。

「当方は急ぐからお先に。なあに、夜にでも着いてくれればいいんだよ」〉

意外な一面を伝えるエピソードだ。天皇はその後、「日本国憲法のもとでの象徴天皇」という、「平成流」の天皇像を模索していく。すべてのスピーチ原稿をみずから書き起こしたうえで徹底的に推敲し、自分の言葉で話すのも、その一つだ。

〈訪問先でなされるスピーチはまず在相手国日本大使館が草案を作ってお手元に届けることから始まるそうである。ご自身はかなり徹底した研究を積まれたあと、想を練り、執筆にかかる。たいていの場合元原稿は大幅に変わる。(中略)

皇太子は自分に頼って道を開く。外務省の言いなりでは主体性が守れない。外務省の道具ではないのだ〉

今回の「生前退位」メッセージは、官邸から見れば天皇の「蛮勇」と映るかもしれない。

しかし、即位から27年、「全身全霊をもって」取り組んできた公務の積み重ねに、天皇は大きな満足感と誇りを抱いている。そして、次世代へ継承されることを強く望んでいる。有識者会議のメンバーは、まずその天皇の覚悟の重さに、思いを致すべきだろう。天皇は、官邸の道具ではないのだ。(敬語敬称略)

   

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