2015年10月号
連載
by 宮
小雨がそぼ降る黒四ダム(8月30日、撮影/本誌 宮嶋巌)
資材輸送の専用トンネル
資材輸送の専用軌道
黒部湖の畔に佇む群像『尊きみはしらに捧ぐ』
黒四発電所の玄関に飾られた関電初代社長、太田垣士郎のレリーフ
夏の仕舞いに「クロヨン」を旅する。黒部川第四発電所の玄関には、関電初代社長の太田垣士郎の言葉が飾ってある。「経営者が十割の確信をもって進める事業。そんなものは仕事のうちに入らない。七割の可能性があれば勇断をもって進める。そうでなければ本当の事業はやれるものではない」と。
太田垣がクロヨン全工事の命運を握る、北アルプスの横っ腹をぶち抜く資材輸送トンネルの掘削を命じたのは1956年。ところが翌年5月1日、坑口から1691mの地点で土石流とともに切羽(きりは)が崩れ落ち、土砂降りの地下水が噴き出した。7月にも膨大な湧水と土砂崩落に見舞われ、遂に掘削不能に陥った。詩人竹中郁は「関電トンネルで大破砕帯に遭遇し 人智人力の限りをつくして半年 未来をひらく鍵は重かった」と、『黒部記』に記(しる)した。
太田垣が現地を訪れたのは8月3日。工事用ヘルメットに作業着と防水ガッパを重ね着し、「奥は危険」と止めるのも聞かず、水が噴き出す切羽まで出張って行った。「どうかね、掘れるかね」と、現場の親方に話しかけ、「何とかなるでしょう」という答えを聞いて、このルート一本で行くと決めた。数日後、太田垣から現場に届いた絵葉書には「日本の土木の名誉をかけて頑張ってください」とあった。それが、ケツを割る(投げ出す)ことを忌み嫌う職人魂を奮い立たせ、遂に破砕帯突破へと導いた。
ダム工事も出水、洪水、落盤、墜落、雪崩と艱難辛苦だったが、7年の歳月と延べ1千万人が心血を注ぎ、クロヨンは63年に竣工。翌年、太田垣は70歳で没した。碧(みどり)の湖面を見つめるように佇(たたず)む殉職者171人の氏名を刻んだ銘板と、掘削機やハンマーで岩盤と闘う男たちの群像『尊きみはしらに捧ぐ』が目に沁みた。クロヨンは雄々しくも切ない、戦後復興期のノスタルジーである。