「タワーマンション」からの脱却

細分化された専有型の集合住宅は少子高齢化社会にミスマッチ。共有する豊かさとは?

2015年1月号 DEEP
特別寄稿 : by 末光 弘和(建築家(SUEP代表・東京大学などの非常勤講師))

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3・11の東日本大震災からはや4年弱、当時、私たちは、個に細分化された現代社会の脆さを痛いほど味わった。それは被災地だけでなく、都市圏でもショックは大きかったと思う。特に、これまで他人同士の寄せ集まりであった東京のような都市部では、災害時にいかに横の連携がないか、人と人の繋がりがないことがいかに不安か、を思い知らされた。

その後、様々な場所でコミュニティなる言葉を聞くことが増えて来た。コミュニティというのは、どちらかというとかつての共同体が持っていた古くさい言葉の臭いもし、少し前だと口にすること自体がどこか恥ずかしいような感覚であったが、それが再度注目されるほど、その欠如を痛感させられたということだと思う。

さて、住まいに目を向けてみると、震災後、超高層のタワーマンションが好調らしい。これは、震災の時に地盤沈下が起きた地域でも杭基礎を持つタワーマンションが無事だった実績によるものもあるだろうし、また、東京にオリンピックが来ることも関係しているだろう。しかし、何かおかしい。

震災で顕在化した問題が、矛盾した状態で進んでいるような、そんな感覚を持ってしまう。集合住宅というのは、もともと人が集まって何らかのメリットを享受しながら暮らす形である。現在の分譲型集合住宅は、地代や建物の建設費をシェアすることで経済的なメリットを享受しているわけであるが、それ以外のほとんどは、住んでいる人同士は無関係である。むしろ無関係であればあるほどよいという価値をつくり出している。

使える空間はごく一部

少子高齢化も進む中、国の社会保障も怪しくなってきている。何かもう少し地域や社会と関係を持ちながら暮らせないだろうか。現代人にとって、かつてのしがらみだらけの共同体に戻りたいとは誰も思わないだろう。だからこそ、自由でありながらも繋がりを持つ、そういった現代的な価値観の住まいはつくれないだろうか。私たちは集まって住むことの意味を再考しなければならない。

集合住宅で暮らすとき、何十階もある大きな建物なのに、自分で使うのはエントランスとエレベーター、階段と自分の家だけで、建物全体からするとほんの一部に過ぎず、何かもったいないと感じなくもない。これは豊かさの概念とも関係する。現代社会の豊かさというのは、いかに自分の専有物を増やすのかという価値観に基づいている。つまり排他的な豊かさである。結果的に閉じた場所を囲い込み、他人との関係を拒絶する。

一方で、共有する豊かさというものが存在する。例えば、自分の住む街の価値がそうである。ゴミが落ちていない街、安心安全な街、緑豊かな街に住んだ時、その豊かさは皆で共有するものである。同じような感覚を集合住宅にも持ち込めないだろうか。

仮にこういう考え方もある。今までの住戸専有面積が70㎡だったとする。これを60㎡に減らし、10㎡ずつを30世帯で持ち寄ると300㎡の共有スペースが生まれる。せっかく大きな建物に住んでいるわけだから、自分の階以外の場所にも使える場所があったらいいし、街にあるカフェくらいの気楽な感じで他の人と共有できる場所があってもよいかもしれない。普段使わない自転車の空気入れとか、日曜大工の道具とかなら他人とシェアできるかもしれない。むしろ、シェアすることで、自分では買えないグレードの工具とかあったら嬉しいかもしれない。

この専有/共有の価値観は、これまで白か黒か、1か0かという二項対立的に捉えられてきたが、その中間に無限のグレーゾーンが存在する。これは空間の問題である。この豊かさの中間領域の空間を探ることにこれからの未来の暮らしのヒントがあると思っている。

短期「売り抜け」でなく

住宅を供給する側に話を移してみる。マンションの開発業者である、デベロッパーは、住宅を商品化して供給している。このデベロッパーは、どういう商売をしているのかというと、土地をなるべく安く買って、上物に付加価値を付けて建設し、高値で売り抜けるビジネスである。「売り抜ける」と言ったのは、時間の問題が含まれている。

今の経済は、ある種焼き畑的なところがあり、今さえよければよい、という短期的な指標で物事を捉えるところがある。コミュニティやまちづくりというのは、短期的成果によって生み出されるカンフル剤的なものは一時的な効果しかなくサステナブル(持続的)ではない。つまり、時間がかかるのである。

例えば、デベロッパーがマンションで短期に収益をあげたいとすると、土地を買収して集約し、なるべく専有比率を高めて、外壁を減らし、高効率に建物を建てることになる。つまり、非常に住戸同士も閉鎖的になり、街に対しても閉じたものになる。土地を集約するから、街から突出したボリュームになって景観が壊れるわけである。でなければ、日影障害とか、通風障害といった話にならないはずである。

例えば、土地を買収して大きなボリュームを建てるのではなく、多少不定形でも街の空いた土地を使って、分散的に小さく建てるとどうだろうか。完全に住民に閉じた場所でなく、少し地域に開かれた建ち方をしてはどうだろうか。使いもしない豪華なエントランスホールなんてやめてしまい、そのお金で、前面に空地や緑道をつくってはどうだろうか。短期で売り抜けるには、非経済なのだろうが、長期的に、地域に愛され、地域の価値を高めることで得られる利益もあると思う。

せっかく大きな投資をするわけであるから、街に喜ばれ、歓迎されるような建ち方はないのだろうか。そういった時間の問題を抱え込んだビジネスのあり方も考えていかなければならない。字数の制約で、より具体的な提案はまたの機会にしたいが、これからの都市における住まいを考える上で、この「空間」と「時間」に関わる価値観のシフトこそが、未来を変えていくトリガーになるのではないかと考えている。

著者プロフィール
末光 弘和

末光 弘和(すえみつ ひろかず)

建築家(SUEP代表・東京大学などの非常勤講師)

1976年、松山市生まれ。東京大学大学院工学研究科建築学修士課程修了、伊東豊雄建築設計事務所を経て独立。新建築賞(現吉岡賞)などを受賞。

   

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