編集後記

2014年3月号 連載
by 宮

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柏崎刈羽原発の横村忠幸(57)さんは現場一筋の技術屋(ボス)である。79年に慶大工学部を卒業して、最初の配属は福島第一原発。

「当時の1FはGE製の電気計装や制御系が弱くて通常運転が苦手。2カ月に1度ぐらいスクラム(原子炉緊急停止)でした。それを我が国独自に改良設計したのが柏崎刈羽の6、7号機です」

糸魚川生まれの横村さんは郷里の原発にどっぷりつかり、4度目の柏崎赴任と同時に所長に就任。9カ月後に運命の日を迎えた。

「テレビ会議の向こうで吉田(所長)が『消防車!』と叫び、死にもの狂いで奔走したが全く間に合いませんでした」

3・11後、東電が柏崎刈羽の安全対策に投じた費用は約2700億円。横村さんの仕事は、肩を落とす現場を回り、励ますことだった。「柏崎の想定津波は最高6mですが、『想定を超える津波が来たら?』と土木屋はすっかり怖気づいていました。ならば1Fを襲った津波を超える海抜15mの防潮堤を作ろう」

そして今、1~4号機の海側にそそり立つ鉄筋コンクリートの防壁約1㎞が竣工。その威圧感は軍事要塞さながらだ。さらに万が一、津波が防潮堤を越えて来ても、重要設備が浸水しないよう水密扉を装備し、原子炉建屋自体を「潜水艦」化した。

「全電源喪失の過酷事故に備えて、ガスタービン発電機車、電源車、注水用消防車など計70台を高台に配備しました。私は人力ECCS(緊急炉心冷却装置)と呼んでいるのですが、当社所員の10人に1人(約120人)が大型免許を取得し、緊急時訓練を繰り返しています。あの日、1Fには何もなかった。想定を超える津波に対し備えが何ひとつなかった点で、あれは人災でした」

故吉田所長の同僚から「人災」と、初めて聞いた。人災であればこそ、人智と備えを尽くし、事故は2度と起こさないというボスの矜持でもあろう。

   

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