2011年8月号
連載
by 宮
7月2日の昼下がり。全村避難した飯舘(いいたて)村に入る。6月22日に福島市に移転した村役場は暗く静まり返り、留守番の職員が独りパソコンを叩いている。その前庭に設置された放射線検出機は毎時3.91マイクロシーベルト(μSv)を示す。原発から40キロも離れているのに、2号機と4号機の連続爆発後、この役場に放射能が降り注ぎ、3月15日午後6時、44.7μSvの最高値を検出した。
3月末にIAEAが避難基準を上回ると警告を発したが、政府が村全域を計画的避難区域に定めたのは4月22日だった。
役場の向かいに立つ地域活性化センター「いちばん館」には、村民350人からなる防犯パトロール「いいたて全村見守り隊」が陣取るが、その玄関に、これ見よがしの大貼り紙。「見守り隊員より、報道陣の取材により、業務に支障をきたすとの声から、見守り隊員に直接及び同行取材は一切お断りします。飯舘村住民課」とある。見守り隊は20行政区ごとに十数名の隊を組み、3交代24時間態勢で各戸を回り、空き巣や盗難を防ぐ。悪い奴らにパトロール隊の手の内を明かすことはない。同行取材お断りは当然だろう。
飯舘随一の観光スポット、緑の森と青い湖面が眩しい真野ダム(はやま湖)の休憩所で、男女ペアの見守り隊を呼び止め、話を聞く。「この湖周辺の大倉地区の線量は、福島市内と同じ1.5μSvで、実は避難する必要がない。ところが、政府が全村避難を決めたので、放射線量とは関係なく、農業牧畜ができなくなった。あとは国と東電の補償に頼るほかない」
震災から115日目。南相馬市で開かれた大震災慰霊祭で黙祷を捧げる。閉式後、市役所の一室で、20キロ圏から命からがら避難した南相馬市議の体験を聞く(96頁参照)。「水素爆発があった日、浪江町側をバイクで走り回った。顔や目や首筋や手がやたらピリピリした。真夜中に目が覚め、凍るような水をかぶって何度も洗い流したが、放射能を浴びるとピリピリ痺れるものらしい……」。原子力災害の悪夢は覚めない。