仙谷の「秘」と後藤田の「秘」

2010年12月号 連載 [手嶋龍一式INTELLIGENCE 第56回]
by 手嶋龍一(外交ジャーナリスト)

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後藤田正晴氏(左)と仙谷由人官房長官

Jiji Press

蘇える後藤田正晴――。菅外交の統裁者を自任する仙谷由人官房長官は、同じ徳島を選挙区とし、中曽根内閣の官房長官として数々の国家的危機を捌いてみせた後藤田に自らを重ね合わせているのだろう。だが「sengoku38」のハンドルネームでグーグルのユーチューブに投稿された映像は、ふたりの官房長官が似て非なる政治家であることを世に知らしめてしまった。

機密情報は外交戦の決定的な武器となる。尖閣沖で中国漁船が意図的に日本の巡視船に衝突を繰り返していた様子を撮影したドキュメント映像がまさしくそうだった。だが、菅・仙谷二重政権は、中国側の強硬姿勢にあえなく屈して、その映像を自ら封印してしまった。

「尖閣諸島は日本固有の領土であり、日米安全保障条約第5条の適用範囲だと考えている」

ヒラリー・クリントン国務長官はこう述べて、中国側が力の行使に踏み切るようなことがあれば、アメリカは日本と行動を共にする姿勢を初めて鮮明にした。だが、あろうことか、その直後に日本の民主党政権は、中国人船長をあっさり釈放してしまった。そして横浜で開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)に中国の胡錦涛国家主席を招くことにひたすら腐心する。中国側を刺激する映像の公表などもってのほかと判断したのだろう。

「現場の様子を記録した映像は公判の重要な証拠であり、裁判の前に公表するわけにはいかない」

中国人船長を起訴できなかった日本政府がどうやって公判廷で映像を証拠に使うというのだろうか。それは法廷弁護士流の言い逃れだった。

その朝、豪胆といわれた後藤田官房長官は悲劇の一報に接して、胃がきりきりと苛まれていた。ニューヨークを発った大韓航空007便がサハリン上空でソ連邦の領空を侵犯し、何者かのミサイルによって撃墜されたらしい。28人の日本人客を含む269人の乗員・乗客が北の海で消息を絶っていた。第2次冷戦の頂点ともいうべき1983年9月1日未明の惨事だった。

ほどなくして稚内にあった電波傍受組織「陸幕調査第2部別室」が、動かぬ証拠を掴(つか)んでいるという報告が飛び込んでくる。ソ連空軍の迎撃戦闘機「スホーイ15」が明確な事前警告なしでミサイルを発射し大韓航空機を撃墜したという。

「805、国籍不明の侵犯機を標的にミサイルを発射せよ」

「標的の国籍不明機は撃墜された」

「別調」と呼ばれるインテリジェンス組織は、「スホーイ15」と極東ソ連空軍の司令部の間で交わされたロシア語の交信記録をそっくり傍受していたのである。

ノンフィクション作家、柳田邦男は大韓航空機撃墜事件の謎に挑んだ『撃墜』のなかで、後藤田官房長官が傍受記録を動かぬ証拠に使ってソ連当局を追い詰める情報戦略を発動したと書いている。だが事実は違う。在日アメリカ軍が日本の自衛隊から直接入手した問題の傍受記録をいち早くアメリカ本国に送っていた。当時のレーガン政権は日本政府の了解を取りつけることなく、国連安全保障理事会で交信録を公表しソ連側を追い詰める挙に出たのだった。

後藤田はこうしたアメリカ政府の対応に激怒した。傍受記録は主権国家日本が独自に入手した最高レベルのインテリジェンスである。同盟国アメリカといえども日本政府の承諾なくして公表していいわけがない。後藤田は急遽官邸で記者会見に臨み、アメリカ政府より30分早く傍受記録を発表して主権国家としての矜持を示したのだった。

後藤田があれほど怒りをあらわにする姿を目の当たりにしたのは初めてだった。ひとたび傍受記録を公にしてしまえば、ソ連側は直ちに交信の周波数を変更してしまう。日本側が再び傍受の体制を整えるには数年を要するだろう。日本のインテリジェンス・マスター、後藤田は、機密情報の公表が諸刃の剣であることを知り抜いていたのである。大韓航空機撃墜事件に臨んだ後藤田が抱いていたディレンマと中国の影にひたすら怯える仙谷のそれとは万里の隔たりがあるといっていい。

長島昭久前防衛政務官と尖閣諸島沖の中国漁船の衝突問題をめぐってテレビの報道番組で議論を交わした。逮捕した船長の司法手続きを淡々と進めるべきだったという筆者の指摘に長島前防衛政務官はこう応じている。

「いったいどこまでやるべきだったと言うんですか。あのまま突き進んでいったら、中国側に拘束された4人の方々は一体どうなったと思うんです。レアアースを止められたら日本の経済はどうなったと思いますか。そうしたことを総合的に判断してやらなければいけないんです」

中国側にフジタの職員を人質として拘束されている以上、中国人船長を釈放する他に策があったというのか、というのである。アメリカの外交問題評議会にも身を置いていた外交専門家にしてこのありさまなのだ。プリンシプルなき民主党の外交姿勢が国家の安全保障をいかに危うくしているかおわかりいただけよう。

そもそも長島発言には二重の錯誤がある。第一は、さしもの中国政府もタテマエでは「フジタ職員の身柄拘束」と「中国人船長の逮捕」を関連づけてはいない。にもかかわらず、民主党政権の側がこれを一体のものと受け取って、ゆえなき妥協に迷い込んでくれたのだから、まさしく中国側の思うツボだった。第二は、自国民を人質に取られて、身代金を支払ったり、テロリストを釈放したりすれば、次なるテロを招いてしまう。凛とした外交の原則を持たない政権は、国際テロ組織の格好の標的にされてしまう。世界第2の経済大国はいまや、テロや脅しにもっとも弱い存在になり果てている。

菅直人首相は、中国漁船による衝突の映像がユーチューブに投稿されるや沈痛な面持ちで次のように語っている。

「情報の漏洩に重大な危機感を抱かざるをえない」

少しも心配には及ばない。映像の公表によってダメージを蒙るのはまず中国側であり、ついで中国の圧力に膝を屈した民主党政権だからだ。菅首相と仙谷官房長官は、「日中関係への配慮」を理由に中国人船長を釈放した検察当局に、映像をユーチューブに投稿した犯人捜しを委ねている。重要な政治の判断を検察に押しつけ、今度は政権への叛乱を鎮圧する役目を担わせる。そんな政治の構図は、この国の統治の根幹が溶解しつつあるさまを端なくも示している。民主党政権が考える「秘」とは、自らの外交の失態を主権者の眼から覆い隠すものにすぎないと断じていい。

著者プロフィール
手嶋龍一

手嶋龍一(てしま・りゅういち)

外交ジャーナリスト

NHK政治部記者を経てワシントン特派員、ドイツ・ボン支局長。ハーバード大学国際問題研究所フェロー。1997年から8年間ワシントン支局長を務め、2005年独立。

   

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