2010年9月号
連載 [手嶋龍一式INTELLIGENCE 第53回]
by 手嶋龍一(外交ジャーナリスト)
ポトマック川の船着き場を意味する「ポトマック・ランディング」に瀟洒なレストランがある。川面をゆきかうヨットを眺めながらシーフード料理を楽しむ人々で賑わっている。スーツ姿の客が意外に多い――注意深い観察者ならそう気づくだろう。常連客の多くがペンタゴンや情報関係者なのである。ワシントンDCの中心街から車で15分足らず、彼岸にはDIA(国防情報局)を望み、此岸のクリスタル・シティには軍需関連のリサーチ会社が軒を並べている。いまは「インディゴ・ランディング」と名乗るこのレストランを指定してきたのは先方だった。「朱色の僧服の群れに紛れてしまえば派手な朱色のジャケットも目立たない」。こんな諺に従ったのだろう。東アジア情勢のオブザーバーとして知られる知人とここでランチを共にした。
「日米関係でいま喫緊の課題は対イラン政策の調整だ」
唐突な物言いに、思わず聞き返してしまった。決定的な発言は聞き返してはいけないのだが、レーガン空港に着陸するジェット機が低く頭上をかすめていったのを言い訳に確かめてみた。やはり、日米にとって最大の課題は、対イラン政策で足並みを揃えることだという。常の外交当局者なら、外洋海軍力を増強する中国へ日米が共同で対処するか、普天間基地の移設問題を挙げるだろう。だが眼前の人物は、ポトマック川を航行する白い船に眼をやりながら、「イラン」と断じて憚らなかった。オバマ政権の上層部では、イラン情勢への対応が外交・安全保障分野の最優先課題になりつつあるのだろう。
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オバマ大統領は、7月1日に核開発を進めるイランを標的にしたアメリカ独自の包括制裁法に署名した。これによってイランにガソリンを供給している外国企業への規制を強め、石油精製装置が少ないイランの経済を一段と締めつけようとしている。さらにイランの核開発関連企業と取引のある外国の金融機関に制裁を科す規定も盛り込んである。トヨタ自動車はすでにイラン向け製品輸出を無期限に停止した。かつてイラン国内の油田開発でも名前がでた豊田通商が輸出に関与していることもあって、北米大陸のビジネスに影響がでる事態を懸念したのだろう。
イラン包括制裁法の発効に先だって、FBI(米連邦捜査局)は、アメリカで民間人を装って暮らしていた10人のロシア人スパイを機密情報を不法に集めていた容疑で一斉に逮捕した。イランの核兵器開発疑惑とSVR(ロシア対外情報局)が放ったスパイ網の摘発。一見すると別々の出来事が、じつは地下水脈で繋がっていたのである。ロシアの情報当局は、10人のロシア人スパイを取り戻そうと、間髪を容れず、とっておきの切り札を差し出した。英米の情報機関のためにロシア国内でスパイ活動を働き収監されていた4人のロシア人と交換しようと持ちかけたのである。かくして冷戦時代の情報戦を再現するようなスパイの交換劇がウィーンを舞台に行われた。
インテリジェンスの世界は等価交換が原則だ。貴重なブツを手に入れたければ、こちらもそれなりの品を用意しなければならない。ロシアの情報当局が差し出した4人は確かにとびっきりの上玉だった。なかでもキーパーソンは2人。CIA関連の企業に機密情報を漏らしていたイーゴリ・スチャーギンは、アメリカ・カナダ研究所の軍事技術・軍事政策課長だった。核不拡散政策の第一人者であり、イランの核兵器開発やイスラエルの核戦略に詳しかった。いまひとりはセルゲイ・スクリパル。GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の大佐だった。ロシア側としては、断じて身柄を渡したくない裏切り者なのだが、10人のロシア人スパイを取り戻すためには背に腹はかえられなかったのだろう。
アメリカ政府に捕らえられた10人のなかで、ロシア側が何としても取り戻したかったのは誰だったのだろう。ロシアの諜報網に詳しい「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏は、「美人すぎるスパイ」などではないと断言する。欧米のメディアを賑わせたアンナ・チャップマンなど「かませ犬」にすぎないという。ゴージャスな姿態をサイトに公開していた彼女は、大物スパイをカモフラージュする道具でしかなかった。米露の情報当局は、暗黙の了解のもとで、メディアを巧みに誘導し、手打ちを図ったのだろう。
佐藤優氏は、リチャード・マーフィーとシンシア・マーフィーの夫妻こそ本命だと指摘する。マーフィー夫妻は、アメリカの有力シンクタンクにも深く浸透して情報ネットワークを築きあげ、アメリカ政府の対イラン政策を探っていた。イランが核兵器の開発を終えたと判断した時、オバマ政権は果たしてどんな対応をとるのか。マーフィー夫妻こそアメリカの意図を知りたいクレムリンの触角の役割を果たしていた。今回の逮捕劇には、緊迫するイランの核問題が影を落としていたのだ。ふたつの出来事を貫くキーワードは「イランの核」だった。
「外の視線に晒したくない情報源が絡んでいない限り、冷戦期のようにスパイ交換などに双方が応じるはずがない。アメリカ政府はイランの核を巡って手の内が判ってしまう事態を何としても避けたかったのだ」
ポトマック・ランディングで会った人物も、こう述べて佐藤優氏の見立てを裏書きしている。
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アメリカのインテリジェンス機関はいま、持てる力の全てを注いでイランの核疑惑を追いつつある。韓国の哨戒艦撃沈事件が北朝鮮による魚雷攻撃だと判っても、オバマ政権が強い姿勢をとれないのは、イランの核問題がいつ火を噴くのか予断を許さないからだ。イランの核兵器保有が刻一刻と迫るなか、中東全域に「イスラムの核」の連鎖が広がる恐れが現実になりつつある。サウジアラビアは従来からパキスタンに膨大な資金を提供して核関連の技術を蓄積している。エジプトやアラブ首長国連邦もやがて「イスラムの核」に手を伸ばすかもしれない。
アメリカ政府は「イスラムの核」の連鎖を断ち切るため、イランに対して外科手術的な空爆を敢行する選択肢を排除していない。イスラエル空軍がかつてシリアの秘密核工場を空爆したように、イスラエルのイラン攻撃を黙認するシナリオも無視できまい。最悪の事態は常に起こり得ると想定しておくべきだろう。
「ブッシュのアメリカ」はイラクへの武力介入のゆえに、北朝鮮とは対話によって核問題を解決するほかに策を持たなかった。「オバマのアメリカ」もイラン情勢の緊迫化のゆえに、東アジアでのプレゼンスを低下させている。菅民主党政権は、こうした情勢を知ってか知らぬか、党内抗争に明け暮れたまま、日本の外交・安全保障戦略を日々劣化させている。