“絶滅危惧”タイプ麻生の関が原

2008年11月号 連載 [硯の海 当世「言の葉」考 第31回]
by 田勢康弘(政治コラムニスト)

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麻生太郎に初めて会ったのはいつだったのか確かな記憶がない。履歴を見ると1979年衆議院初当選とあるから、たぶんそのころだろう。同じ福岡出身の政治家で私が親しかった田中六助(元自民党幹事長)に紹介されたような気がする。のちに内閣総理大臣になる人物について「気がする」程度の記憶しかないのは不遜に過ぎるが、そのぐらい印象が薄かったのだろう。

いかにも日本青年会議所の会頭、痩身でおしゃれ、だみ声で持って回ったような言い方をする。「おれは新聞記者がきらいだ」という彼の口癖を最初に耳にしたのもこのころだったろう。政治記者が若い政治家を見るときの判断基準は、将来、どの程度の地位まで駆け上がるか、である。まあ、大臣にはなれるだろうが、幹事長や総理・総裁はとても無理、という印象だった。

それは私ばかりではなく、当時、麻生太郎が所属した大平派全体の受け止め方だったのではないか。そのころ、麻生は私の顔を見ると、「おい、もう少しましな床屋へ行ったらどうだ」とか「少しは着る物を考えたほうがいい」などと言った。彼一流の親しさの表現だったが、以来、そういうことにも気を使うようになったので、有難かった。

田中六助は麻生をかわいがった。同じ福岡、ということのほかに田中が記者時代に取材した吉田茂の孫であり、麻生太賀吉の長男でもあったからだ。「輝かしい家系なんていうけど、フン、別の言い方をすれば、3代前は炭鉱労働者じゃないか」などと麻生をからかっていた。「あいつはただものではないんよ。政治的な勘の良さは、さすがに大久保利通、牧野伸顕、吉田茂の血が流れちょる」とよく言っていた。

一匹オオカミの麻生は、群れるのを嫌ったし、雰囲気も政治思想も大平派では異端だった。それでも、いまはその不仲が政界のニュースになる古賀誠とは六助門下の兄弟のようにいつもいっしょにいた。同じ福岡の出、同じ年齢。のちに二人は異なる人脈とつながり、それが仲違いの原因になる。麻生は宮沢派の河野洋平と加藤紘一の対立のときに河野についた。加藤は派閥のプリンスとして主流を歩み、自民党幹事長まで上り詰める。かき集めてみても河野の周りには15人ぐらいしか手勢がいない。河野は総裁(総理にならなかったたった一人の総裁)にはなったが、麻生は無理だ、とだれもが感じていた。加藤の乱で加藤が力を削がれ、それから麻生は小泉、安倍、福田の3代の政権で主流を駆け上がってゆく。麻生太郎が天下を取るに至るまでは、時代による政治の質の変化が味方している。ひとつは派閥の弱体化、形骸化。総裁レースが目的の大派閥の領袖が総裁候補になれない時代になり、麻生のような小派閥でもレースに参加できるようになった。

総裁争いでカネが乱れ飛ぶようなことがなくなったことも大きい。麻生は4回目の挑戦で勝利したが、カネのかかる総裁選の時代だったら、いかに資産家でも4回も挑戦することは不可能だった。

それに小泉純一郎が高い人気のまま5年半も総理をつとめたことから、異端の指導者がむしろ歓迎される時代になったことも麻生総理誕生の背景にある。変人といわれた小泉を上回る変人は、麻生以外にはいないと私は感じていた。

私から見える麻生太郎の実像は、義理と人情の川筋者気質である。筑豊の遠賀川沿いの人々特有のものである。来てくれませんか、と声をかけたら、あんたの授業なら行くよ、と二つ返事で私の大学の講義に来てくれたのは1年ほど前だ。また、始めたばかりの私の報道番組にも生出演してくれたが、他のテレビはすべて録画だとのちに聞いた。大学の講義は通常の倍以上の学生が集まり、漫談のような麻生節に爆笑の連続だった。

「新聞はほんとうのことを書かない。だからおれは新聞を読まない。ただ、見るだけ」。私の前でそう言ってのける麻生に学生たちは大喜びだった。麻生はそこまで言ってもいいのかな、とこちらが心配するほど本音で話す。話を面白くしようと例え話をたくさん使う。

数多い失言は、サービス精神旺盛な政治家から生まれる。政治家にはあいさつをするときに用意した紙を読むタイプと、すべて即興でするタイプの二通りある。麻生は森喜朗や小泉とならんで即興派である。森はかつて総理時代、神主が集まるパーティーで「日本は神の国」と述べて大騒ぎになった。

つきあいは決して短くはないが、政治家としての麻生が何を考えているかはよく知らない。そこで集められるだけ本を集めて読んでみた。『麻生太郎の原点 祖父吉田茂の流儀』(徳間文庫)、『自由と繁栄の弧』(幻冬舎)、『とてつもない日本』(新潮新書)、それに祖父吉田茂の関連の書物を数冊読んだ。すべてに麻生のにおいが漂う。建前をぶち壊し、本音をさらけ出し、かつ、常識を覆す手法は、麻生の得意技である。

一貫しているのは吉田茂の行動、思考が通奏低音として流れていることだ。こんなくだりがある。「鳩山一郎氏の公職追放がなければ、祖父吉田茂は総理大臣にならなかったかもしれない。もし鳩山氏が敗戦直後から総理大臣をやっていたら、日本はどうなっていただろうか」(『とてつもない日本』)。吉田、鳩山の孫同士が政権を争うのも、因縁だ。

福田康夫政権の改造人事で自民党幹事長になったとき、麻生に聞いたことがある。福田総理との共通点は? と。麻生は「何もない。二人で飯を食ったり呑んだこともない。共通点があるとすれば、総理大臣を出した家庭は不幸だということを知っていることぐらい」と答えた。その内閣総理大臣の座に遂にたどり着いた麻生。最後の将軍、徳川慶喜にも例えられる厳しい状況での就任だ。

初当選のとき、麻生は「下々のみなさん」と選挙区でしゃべって顰蹙を買ったことがある。自分がどういう人間かを選挙民はみな知っている、それならば、妙にへりくだるよりも逆にみなが思っているように話したほうが受ける、という漫画大好き人間のギャグだったが、反発を買うだけだった。

麻生は面白い人間である。絶滅が危惧されるタイプといってもいいだろう。加えて、根回しのない喧嘩戦法。時代が麻生のようなタイプの政治指導者を求めているのかいないのか。すべては麻生と小沢一郎の「太郎・一郎の関が原の戦い」にかかっている。

著者プロフィール
田勢康弘

田勢康弘(たせ・やすひろ)

政治コラムニスト

早稲田大学卒。日本経済新聞社ワシントン支局長、編集委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任し、2006年3月末に同社を退社。4月から早稲田大学大学院公共経営研究科教授、日本経済新聞客員コラムニスト。

   

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