『エニグマ・コード 史上最大の暗号戦』
2008年3月号
連載 [BOOK Review]
by 石
出版社:中央公論新社(3200円+税)
古代エジプトの象形文字ヒエログリフの中にも、意図的に標準外の文字を用いた例があるといい、暗号は紀元前の遙か昔から使われていた。第二次大戦中に使用されて名高いのが、ドイツの「エニグマ」である。機械を使って別の文字に置き換える換字式暗号だが、これまでも暗号史や諜報戦史に必ず顔を出し、スパイ小説や映画に何度も取り上げられてきた。
本書は丹念に集めた史実を土台に、暗号解読をめぐる攻防を包括的に捉えたエニグマ史の決定版。インテリジェンスの何たるかを知るには必読の書と言える。
謎を意味するエニグマとはローター式暗号機のこと。いくつかあるローターの選択、セットする順番、ローター目盛りの初期位置、プラグボードの配線を変えることで無数の変換が可能になる。
物語はヒトラーが首相になる直前、ドイツ国防省暗号局の幹部職員がフランスの情報員と接触するシーンから始まる。彼はエニグマの操作マニュアルを情報員に渡し、これによってポーランドの暗号解読員がエニグマの仕組みを解明、イギリス、フランス、ポーランド3国の協力で解読が進められる。
出だしはスパイ小説風だが、その後はイングランド中南部の大邸宅ブレッチリー・パークに集められた暗号解読員――コンピューターの祖、アラン・チューリングら若き数学者たちの暗号解読への挑戦を中心に展開する。エニグマの構造説明など多少煩わしい部分もあるが、解読の手がかりがちょっとした思いつきだったなど、数学嫌いも安心して読める。
暗号解読作業と並行して重要なのが、大西洋、インド洋を荒らし回ったドイツ海軍の潜水艦Uボートに対する作戦である。ローターの選択、セット順などを頻繁に変えるエニグマの暗号を解読するには、数学者の閃きだけでは足りず、ドイツ軍が使用している暗号表の入手が不可欠。そこで英国側はUボートの艦内から暗号表を奪い、解読していったのである。
Uボートを英軍が捕獲したり、ドイツ艦隊の行動が事前に察知されたことが分かれば、ドイツ側は暗号が解読されたことを知り、暗号システムを変更してしまう恐れがある。そこでドイツ軍が疑念を抱かぬように攻撃を加えるのだが、現場の混乱でしばしばミスを繰り返し、ハラハラさせられる。
祖国を裏切った暗号局員や情報員の悲劇、解読にかかわった数学者たちのユニークな個性や苦闘、沈みゆくUボートで暗号表を廃棄しようとするドイツ兵、回収に必死な英国兵の戦い。エニグマをめぐり、それぞれの立場での息詰まるような活動が、一人ひとり実名で再現されていく。
イギリスをはじめ連合国側の動きが詳細なのに比べ、ドイツ側の証言が乏しいのは、敗戦国ゆえの史料不足のためだろうか。結局、エニグマは解読され、連合国は当初の劣勢を巻き返すことができたのだが、ドイツは「エニグマは解読不能」と絶対の信頼を置いて終戦まで使い続けたという。
暗号解読員や兵士が主役のドキュメンタリーだが、彼らを翻弄する巧妙な暗号機械が陰の主役と言えるかも知れない。それもまた人間の知恵がつくり出したものなのだが。