崩れざる冬薔薇 藤波孝生

2007年11月号 連載 [硯の海 当世「言の葉」考 第19回]
by 田勢康弘(政治コラムニスト)

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途中で政権を投げ出してしまうような情けない政治家の姿を見ると、きまって一人の政治家のことを思い出す。彼だったらどうしただろうか、と考える。いまはもう覚えている人も少なくなっただろう。藤波孝生という人物である。中曽根内閣の官房長官だった人物、というよりはリクルート事件で受託収賄罪に問われ、有罪が確定した政治家というほうがわかりやすいだろう。

平成14年に頼まれて『早稲田大学雄弁会百年史』に宰相論を書いた。雄弁会出身の竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗の4人について「在野精神離れた雄弁会宰相 凡庸の限界」という題で批判的に書いた。その最後に、雄弁会出身で宰相にならなかった藤波について書いた。

「どうしても気になる人物がいる。彼が総理になっていたら、どうだったか、といつも考える人物がいる」「総理をさせてみたい政治家、問われれば(問われたことはないが)心の中でそっと藤波孝生と答える。どういう関係か、と問われれば、1度会ったことがあるだけ、と答える」「藤波との対話は長時間に及び、暗くなった部屋で立ち上がった時には、もう日がすっかりと落ちていた。(略)藤波との対話ほど、鮮烈に、そして清々しく、感動的なものはない。知り合うということは、会う回数や時間ではない。深さだということを藤波との対話から学んだ。あれっきり、藤波には会っていない」

リクルートが配った未公開株は、政界、財界、官界の主だったところにわたっていた。そのうち政界関係では中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎をはじめ、主要な政治家ほとんどに行き渡っていた。その数およそ90人に及んだ。藤波はリクルートから就職協定に関して公務員の青田買いについて善処してほしいとの請託を受け、リクルートコスモスの株と小切手を受け取ったとして在宅起訴された。

1989年12月、東京地裁で初公判が開始され一審は無罪、検察側控訴で97年3月、逆転有罪判決。99年10月、最高裁が藤波被告側の上告を棄却し有罪が確定した。関与した政治家の数と顔ぶれでいえば、ロッキード事件を上回る大疑獄となったが、その中で藤波はだれか政治家を血祭りに上げなければ事件が収束しないという雰囲気の中で、人身御供となった観がある。

捜査のために藤波の自宅を訪れた検察関係者は、階段にまでうず堆く積まれた書物を見て、ほんとうにこの人物を起訴すべきなのだろうかと思ったという逸話がある。裁判は10年続いた。藤波は裁判の場では強く無罪を主張したが、それ以外では一切弁解したりはしなかった。ひたすら選挙区を「お詫び行脚」し、俳人藤波孝堂として俳句を詠み続けた。私が藤波と向かい合ったのは、逆転有罪判決が出た直後だったかと思う。実家が伊勢の和菓子屋の藤波は、伊勢神宮の干支の土人形を土産にくれた。そのころ新聞に藤波のことを書いた。すぐに電話をくれたのが藤波の早稲田雄弁会の後輩である小渕恵三だった。「藤波さんのことを書いてくれてありがとう」と言った。それ以来、今日まで藤波を悪くいう人に会ったことがない。大学時代のあだ名は「神様」だったというが、単に伊勢が地元というだけの理由ではなかったのだろう。

藤波の俳句では「控へ目に生くる幸せ根深汁」がもっとも有名である。藤波はこの句についてこう語っている。

「共産党の正森成二さんが中曽根康弘さんの証人喚問のときにこの句を引用しましたからね。中曽根さんの『したたかと言われて久し栗をむく』と対比して。結局、何千も句をつくって、この句だけ残るんでしょうかね」(早野透著『政治家の本棚』)  何度も藤波の句集を開いて声に出してみるが、おもくのしかかった裁判の影が感じられるものがすばらしくいいと思う。

日々行脚心にしみる蝉の声
風荒ぶとも晴ればれと冬の天
有難き人の情や春来る
冬薔薇端然として崩れざる
白百合や胸に秘めたる志
信ずべき人脈があり風薫る
くちなしやお詫び行脚の旅衣
真っすぐに一本の道草の花
炎天を一虚無僧として歩く
梅雨寒に耐へる唇噛みしめて
臥薪のとき嘗胆のとき青嵐
濃紫陽花おわび行脚の旅つづく
巻き返す時こそ得たり白芙蓉
弁護団長が自信の汗拭ふ
まだ修行不足と言はれ秋暑し
朝顔の鮮やかなれば掌を合はす
菊薫る不撓不屈の十五年

政治生活40年で引退するとき、親しい人たちが集まったパーティーで藤波に会った。手を握ったときの笑顔は昔のままだったが、言葉がない。私がだれか、わかっていないようだった。あいさつは紙に書いたものをだれかが読み上げた。

花ざくろ四十年の日々を祝(ほ)ぐ
晴ればれと梅雨明けここに四十年

長い間、おびただしい数の政治家を見てきたが、それで得た結論めいたものは、政治家には努力で補うことのできない運、不運がつきまとうということである。その分かれ目の非情さは同じようにリクルート株を譲渡されていながら、総理の座にかけのぼった政治家たちと、有罪が確定した藤波を見ていれば分かる。若い頃から将来の宰相候補といわれた。河野洋平らが自民党を飛び出し、新自由クラブを結成したとき、ほんとうは藤波がその中心にいるはずだった。その後も「新生クラブ」という派閥横断のリベラル派を集めた政治グループを率い、いずれ総理総裁になると目されていた。

引退してからでも、もう4年ほど過ぎた。どうしているだろうか、と時々思うが、激動の永田町で藤波が話題になることはほとんどなくなった。

著書『藤の花』は、微笑む藤波の写真が表紙になっている。大きなメガネの奥の目は細くやさしく、この人物の心には一点の曇りもないことを教えているかのようだ。こんな美しい目をした政治家が、有罪なのかとその悲運に思いをはせる。

藤波はつわぶきの花が好きなのか俳句にも何回も登場する。

官邸の一隅を占め石蕗(つわ)の花

その総理官邸もいまは小泉内閣のときに新しいものに替わっている。中曽根内閣のあと、竹下登、宇野宗佑、宮沢喜一をのぞけば、みな自民党で藤波の後輩にあたる総理が続いた。そのいずれと比較しても、藤波が劣っているとは思えない。藤波はことしの暮れに75歳になる。来し方をどのように見つめているだろうか。

著者プロフィール
田勢康弘

田勢康弘(たせ・やすひろ)

政治コラムニスト

早稲田大学卒。日本経済新聞社ワシントン支局長、編集委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任し、2006年3月末に同社を退社。4月から早稲田大学大学院公共経営研究科教授、日本経済新聞客員コラムニスト。

   

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