宮沢さんの無愛想の魅力

2007年8月号 連載 [硯の海 当世「言の葉」考 第16回]
by 田勢康弘(政治コラムニスト)

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小渕恵三さんが総理大臣だったころ、嬉しそうな表情で便箋3枚に書かれた文章を見せてくれたことがある。「大蔵大臣からこれを貰った」。宮沢用箋と記された便箋には、間違いなく筆ペンの宮沢喜一さんの字が躍っている。マスコミが小渕さんを「ボキャ貧(語彙不足)」とか「真空総理」とかからかっていたころのことである。

「いわゆる『真空』の効用について老子の説くところを高覧に供します」という書き出しである。「大成は欠けたるが如く其の用弊(やぶ)れず 大盈(えい)は冲(むな)しきが如く其の用窮まらず」「本当に完成しているものはどこか欠けているように見えるが、いくらつかってもくたびれがこない。本当に充実しているものは一見無内容に見えるがいくら使っても無限の効用を持つ」と解説がついており、最後に「老子第45章」と出典が記してあった。

小渕さんはこれを自分への励ましと信じて疑っていないようだった。いかにも真正直な小渕さんらしかった。宮沢さんは励まし半分、冷やかし半分だったのではないかと思う。これほど深い漢学の素養を身につけている政治家は珍しいが、同時に、茶目っ気たっぷりのいたずらをしたりするのである。

政治記者として政治家に会うようになって丸35年。国会議員だけでおそらく数千人に会ったと思うが、宮沢喜一さんほど不思議な政治家はいなかった。同時に、会うとき、これほどこちらが緊張する政治家もいない。別に怖い人というわけではない。しかしどういう言葉が飛び出すか、あるいはこちらの質問にどう反応するかが読めないのである。

だんだん慣れてくるとこの緊張感がたまらなくなる。時間を取ってもらって話を聞きに行く。「おやおや、どうしましたかな」。目が消えてしまうほどの笑顔で出迎えてくれる。しかしこの雰囲気は長くは続かない。つまらない質問をすると、とたんに笑顔が消えて、目が異様に大きくなる。「ほかに何か……」と言われたら、もう帰りなさい、ということだ。

酔うと人が変わる。それも赤くなったりしないので、こちらにはどの程度酔っているかわからない。突然、「てやんでぇ」などとべらんめえ口調になる。酔っていなくてもどんな言葉が飛び出すかわからぬ人だから、よほど慣れないと酔っているかどうかの境目がわからないで苦労することになる。少々、酔いが回ってきたかな、というあたりでの宮沢さんの言葉が一番、おもしろい。直接、耳にした言葉を並べてみる。

「あの方はいまだに古典的経済学を固く信じていらっしゃる」(大平正芳蔵相について)

「ま、高校野球みたいなものでしょう」(海部俊樹首相について)

「あの方、県議出身でしょう。あのころ早稲田は無試験でした。僕の義父が商学部の部長でしたから嘘ではありません」(竹下登氏評)

「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知ってました?」(金丸信氏評)

「人の悪口書いて商売になる。うらやましい仕事ですな」(新聞記者について)

いつのころだったか、日本経済新聞の名物記事、『私の履歴書』への執筆を頼みに行ったことがある。いつものように腕を組んで、首を右に大きく傾げながら、宮沢さんはこう言い放った。「それはま、ありがたいことですがね。私にはどうも自分の人生を人に語って喜ぶ人の気持ちがわからない。あなたはまあ、私を良く知っていると思っていたのだが、まさか、こういう話をはいそうですかと簡単に受けるような人間だと思っていたのではないでしょうな」

もう引っ込むしかない。米ハーバード大学の研究所に研究員として入る際に、推薦状を頼んだことがある。「自分で作成して持ってきてください。署名しますから」ということだったので、英文を考えてタイプで打って持参した。宮沢さんはなかなか署名しようとしない。長い沈黙。「どう考えてもここの冠詞はaではなくtheじゃないかな。悪いけどもう一度作り直しだね」。こちらはお願いするほうだから、仕方ない。この人の怖いところは、自分を決して過大評価しないことだ。謙遜というよりは、みなぎる自信のせいだろう。あれほど嫌がっていた『私の履歴書』を亡くなる1年前に掲載した。1回目の「最近の筆者」と題のついた写真は、痩せこけている。普通はこのように老いた写真は嫌うものだが、宮沢さんはおそらく意図的に載せたのだろう。このころ嫌いだったテレビにもよく出演するようになった。いまにして思えば、社会への遺言のつもりだったのだろう。

「私自身はそれまでずっとリーダーの器ではないと思っていた」と「履歴書」で書いている。それまで、というのは1984年7月の中国訪問まで、ということである。この旅の同行記者団に加わったが、その年の秋の総裁選をにらんで、宮沢さんがどのような表現で政権への意欲を示すかが政界の注目点だった。「中原環(ま)た鹿を逐う、功名誰か復(ま)た論ぜん」と唐詩選を引用したが、あまり難しいので波紋は広がらなかった。

「一番苦手なことであり、非常につらかった」と振り返っている。宮沢さんの人間関係はすべて「NO」から始まるようだ。付き合ってみてごく少数の人が「YES」と交際を許される。池田勇人元首相につかえたが、人生の師として前尾繁三郎元衆議院議長の名を挙げている。佐藤栄作元首相にも可愛がられた。おおむね官僚出身の政治家と関係が深い。反面、まったく折り合わなかったのが田中角栄元首相だ。

そのため、田中さんの盟友だった大平正芳元首相との関係も政治家になってからはことごとく悪かった。

宮沢さんは政治歴からすればもっと早く首相になってもおかしくなかった。遅れたのはやはり田中さん、大平さんとの人間関係の悪さのせいだろう。渡辺美智雄、三塚博さんとともに総裁候補の一人として竹下派会長代行の小沢一郎さんの面接を受けるという屈辱も味わった。宮沢さんは履歴書で「無礼なことをされたという印象はない」と書いている。 宰相として高い評価はできないし、当人もそう考えているだろう。しかしながら、宮沢さんの知性を現代の政治家は学ぶ必要がある。留学や在住の経験のない日本人の英語としては最高級レベルといわれた英語力。世界の指導者たちからその知性を褒め称えられる政治家が、これから先も出てくるだろうか。忘れられない場面、それは初めて名刺を出した時のこと。「誕生日が同じなんです」と言ったら、宮沢さんは困ったような顔をしてこう答えた。「それが、何か?」。愛想のなさが魅力だった。

著者プロフィール
田勢康弘

田勢康弘(たせ・やすひろ)

政治コラムニスト

早稲田大学卒。日本経済新聞社ワシントン支局長、編集委員、論説副主幹、コラムニストなどを歴任し、2006年3月末に同社を退社。4月から早稲田大学大学院公共経営研究科教授、日本経済新聞客員コラムニスト。

   

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