哀れ、街に溢れる「貧乏歯医者」

何と5人に1人が年収300万円のワーキングプア。かつての「儲かる職業」の面影もない。

2007年8月号 DEEP

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今年から60歳定年を迎え始めた団塊の世代が小中学生だった1950年代後半から60年代前半にかけ、歯科診療所の待合室は虫歯の痛みに顔をゆがめる子供たちや大人で溢れ返っていた。夜明け前から玄関先に並び、順番を待つ光景は、3時間待ちの3分診療はオーバーとしても、「虫歯の洪水」として社会問題化した。

あの当時、高級外車を乗り回し、高額所得者にランクされる歯科医が少なくなかった。「歯医者は儲かる職業」と羨ましがられたものだ。歯科医が不足していたのだ。ところが最近、働いても働いても低収入が続くワーキングプアという階層に、歯科医が位置づけられているというからただ事ではない。

厚生労働省によると、昨年末で全国の歯科診療所は6万7千カ所以上。約4万店のコンビニエンスストアよりはるかに多い。歯科医師の総数は10万人を超える。都内千代田区で開業して20年以上の歯科医(55歳)は、「ここ5年で収入は3~4割減。患者も半減。保険点数が下がり続け、自費診療分も減っている。新規開業が増えたのが大きい」とぼやく。コンビニ激戦地区の実態を聞いているような錯覚すら覚えるが、これが歯科医師過剰が引き寄せた現実なのだ。

日本一の「激戦区」は新潟市

もちろん歯科医のすべてが貧乏になったわけではない。1~2割の診療所は繁盛しているが、残りの大半が厳しい経営環境に置かれ、医師との所得格差は年々開く一方だ。

厚労省の2005年医療経済実態調査などによれば、歯科開業医(1医院の平均歯科医師数は1.4人)の儲けを表す収支差額の平均値は1カ月当たり120万円程度。これを歯科医1人当たりの平均年収に直すと800万円になるが、高額所得者はほんのひと握りで、5人に1人は年収300万円に過ぎない。さらに100人中5人は申告所得がゼロ。ワーキングプアは決して誇張ではないのだ。

千葉県北西部のニュータウンを貫く私鉄のある駅周辺には、1万数千人の沿線人口に対し歯科診療所が10軒も集中する。増えたのはここ数年のことだ。「腕が良くて親切、良心的」と評判の診療所は予約が引きも切らないが、こっそり駅前のビルを出たところもある。歯科業界誌記者によれば、首都圏を中心に新設歯科診療所の約3割が開業3年目に経営危機、閉鎖の憂き目に遭っている。少ない患者を引き止めるため、窓口負担の値引きすら行われているという。

5月に起きた東京歯科大同窓会の贈収賄事件も、こうした歯科医たちの切実な経営事情を反映しているといえよう。逮捕された社会保険庁の指導医療官は、診療報酬を増やす具体的な方法などの「裏ワザ」を勉強会に参加した歯科医たちに教え、レセプトの不正請求の疑いがある会員の相談に応じていた。

現在、人口10万人当たりの歯科医師数は全国平均で72.6人(04年末現在)。保険診療を主体にして高収入を得られる条件での適正数50人を優に超えている。さらに、都市別では人口10万人当たりの歯科医師数が100人以上の都市が12もある。全国第2位の東京都区部は145人で全国平均の2倍。これを大きく上回るのが第1位の新潟市で、159.4人。新潟大学と日本歯科大新潟生命歯学部が歯科医を大量に輩出しているためだ。続いて、3位の長崎市(131.7人)、4位の福岡市(129人)、5位の岡山市(118.8人)、と歯科大学や歯学部を抱える都市が上位を占める。

こうした歯科医の過剰と貧窮をもたらした原因は何か。いうまでもなく、理念もないまま新設・増設された歯学部(歯科大)の定員増にほかならない。冒頭の「虫歯の洪水」が社会問題化した60年当時、歯科医の養成機関は「歯科の旧六」と称された旧制歯科医学専門学校6校(東京医科歯科大、日本歯科大、東京歯科大、日大など)に大阪大を加えて7校しかなかった。それで歯科医の「適正数」が保たれていたのである。厚生省(当時)は、65年までに広島、東北、新潟の各国立大学を含む6校に歯学部を設置、さらに80年代前半までに16校を新増設した。その結果、国立11校、公立1校、私立17校の計29大学に拡大され、定員は国公立約500人、私立約2500人の合計3千人に及んだ。

しかし、どう見ても多すぎた。経営悪化に伴うサービス競争は診療の質の低下や過剰診療、過剰請求に直結する。食うに困った歯医者にかかるほうはたまったものではない。

92年に野村総合研究所が「歯科診療所経営の収支は2010年に現在の40%まで落ち込む恐れがある」と、歯科医師過剰による経営悪化を指摘しているが、実はその6年も前に、厚生省は歯学部入学定員の20%削減に着手している。が、同じ頃まで歯学部新設を認可しており、その無策、無定見には驚くべきものがある。そもそも計13の歯学部ができた65年時点で、歯科医の供給数が足りていたことは自明だった。

「過剰」知りながら放置

その厚生省が98年、諮問機関である「歯科医師の需給に関する検討会」に出させた報告書は、05年以降、供給が需要を上回り、25年には9千~1万8千人の過剰が見込まれるとしている。つまり、増やしすぎたと分かっていながら、数年前まで年間2500人以上の国家試験合格者を濫造し続けていたのだ。その厚顔ぶりには呆れてものが言えない。

昨年暮れ、厚労省はようやく、「新規参入の歯科医師数を1200人程度とする必要がある」「歯科医師国家試験合格者数の約55%が過剰」との考えを示したが、時すでに遅し。その後に「参入」した歯科医の一部は早くもワーキングプアと化している。

歯学部定員の8割以上は私立大学が占めている。最短6年間で私大歯学生が払い込む学費は3千万~4千万円が相場だ。私大医学部とそれほど変わらない。最近は国試に合格して研修を終えると、早々と開業するケースが目立つ。勤務医時代に十分なトレーニングを受けたくても、ポストがないので開業せざるを得ないという事情がある。一方、ビルの一室を借りるテナント開業でも初期投資額は最低3千万円は下らない。かつては学費も含めそれだけの投資をしても10年で回収可能といわれていたが、今はとても無理な相談だ。

コンビニ以上と揶揄される過当競争だけではない。歯科医師1人当たりの患者数は20年前の半分に落ち込み、家計上も歯科医療費の優先順位は低下する傾向にある。自費診療の比率も1割程度に減っており、点数の低い保険診療をコツコツとこなすほかない。歯科医になるメリットはどこにも見当たらないのだ。

歯学部への進路を決める前に、このような状況を知らなかった若者たちは気の毒というほかない。その一方で、歯学生には金持ちの医者、歯医者の子弟の割合が高く、「医者が無理なら歯医者にでも」と大金を積む親も依然として少なくないようだ。一度作ってしまった大学はほとんど潰せない。それどころか、既得権化した入学定員を削るのも容易でない。

断言できるのは、無節操な歯学部新設認可と、歯科医師数の適正な将来見通しを誤り続けてきた行政の怠慢と失態が、今日の悲惨な状況を招いており、今後も深刻化し続けることである。

   

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