英ロ「怪死3人組」にシベリアの接点

ポロニウム“毒殺”に絡む生物兵器人脈。ロシアの計画を知りすぎた人間の「口封じ」説。

2007年5月号 GLOBAL
特別寄稿 : by ゴードン・トーマス氏(国際インテリジェンス記者)

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微量でも死にいたる放射性物質ポロニウム201によって昨年、ロンドンで毒殺された亡命ロシア人スパイ、アレクサンドル・リトビネンコ元連邦保安局(FSB)中佐の謎に、新しい切り口が見えてきた。2003年7月、英オックスフォードシャーの自宅付近で死体となって発見された英国防省の生物兵器の権威デビッド・ケリー博士である。2人はいったいどんな関係だったのか、英防諜機関MI5は捜査に着手した。

ケリー博士の名が英国政界を震撼させたことを覚えているだろうか。「首相官邸がイラクの大量破壊兵器に関する報告書をセックス・アップ(脚色)するよう操作した」と報じた英放送協会(BBC)のラジオ番組がトニー・ブレア首相を激怒させ、その情報源が自分だと暴露されるや、変死を遂げた人物である。グレッグ・ダイクBBC社長は辞任に追い込まれ、調査委員会が自殺と結論づけたが、謎は解けない。

博士とリトビネンコの共通項は、第一に「科学」と「諜報」が接する闇の世界に身を置いていたこと、第二にウラジミール・パーセチニクという謎のロシア人化学者と深いつながりがあった点にある。パーセチニクはロシアでも最高峰とされる生物兵器専門家で、ミサイルで天然痘ウイルスやペスト菌をばらまくシステムを開発した。ケリー博士の手助けで1989年に英国に亡命したが、12年後に自宅のベッドでこれまた謎の「脳卒中死」を遂げている。

この3人の不審死を結びつけるものは何か――MI5はケリー博士とパーセチニクも他殺の可能性があるとみて、捜査を進めることにした。考えられる動機は、ロシアの生物兵器製造再開計画を知りすぎた人間の口封じ……。

森の奥「ベクター」の出会い

ただ、今年2月25日放映のBBC番組「デビッド・ケリー――陰謀のファイル」は別の新説を打ち出している。イラクが大量破壊兵器を保有しているかどうかの調査に関わった報復として、潜伏中のサダム・フセイン元イラク大統領(昨年12月刑死)の指示で暗殺団に殺害されたという。しかし、MI5はイラク人によるケリー暗殺説は「ほぼありえない」と判断、ケリー、リトビネンコ、パーセチニクの“怪死3人組”に捜査の焦点を移している。

そもそも「西側に亡命する決心がついた」パーセチニクを、MI5の力を借りて007さながらパリから連れ出す手引きをしたのはケリー博士である。その支援作戦に関わった工作員の一人によると、マーガレット・サッチャー英首相(当時)は、ケリーの報告書を読むとすぐソ連のミハイル・ゴルバチョフ党書記長(当時)に電話をかけ、(生物兵器開発の疑いが濃い)パーセチニクの勤務先を捜査せよと要請したという。

MI5が死んだケリー博士の自宅書斎から押収した7台のパソコンのうち1台のハードディスクには、博士がシベリアのカラマツやカバの森の奥深くにある生物兵器研究の秘密複合施設「ベクター」を訪問した際の詳細な記録が残っていた。

訪問は91年1月14日。ケリー博士は同行チームとロンドンを出発しベクターに到着したが、一行の監視役に任命された工作員の一人が、当時27歳の若さで少佐を務めていたリトビネンコだったという。

同行した英国防省のクリストファー・デービスによれば「ロシアの化学者たちとウォツカとキャビアの贅沢な夕食をとり、友情の祝杯を何度もあげた」という。「(そこに交じっていた)リトビネンコが職務の一環でケリーに接触したのはほぼ間違いない」(MI5の諜報員)。

「緊張が走った」瞬間もあったらしい。「パーセチニクが手がけていた天然痘の研究に言及すると、ロシア人化学者の一人が憤慨、親しげな態度が一変して敵意むきだしになった」。これが後のリトビネンコ亡命の布石となったのではないか、とMI5はみている。

リトビネンコ自身は、98年11月にモスクワで記者会見を開き、新興財閥(オリガルヒ)の富豪ボリス・ベレゾフスキー(現在は英国に亡命中)の暗殺指令を受けたと暴露し、2度逮捕されている。モスクワの刑務所に送り込まれたが、罪に問われることなく釈放された。しかし、2000年に3度目の逮捕が迫り、ロンドンに亡命したのである。

ロンドンで暮らし始めてリトビネンコが目にしたのは、英国で亡命生活を送るパーセチニクの姿だった。ケリー博士の計らいで、英南部ウィルツシャーにある国防省の防衛科学技術研究所(ポートンダウン)で「攻撃兵器に対抗するための防衛兵器」開発担当の仕事を得たばかりでなく、付近のソールズベリーに小さなリサーチ会社を発足させていた。

「お尋ね者リスト」の筆頭

その社名「レグマ・バイオテクニカルズ」はケリー博士の命名だが、この会社が何をしていたかは「炭疽菌の感染診断および治療のほか、新性能あるいは既存の性能を基盤とする能力の共同開発」と記した定款でしかうかがい知ることはできない。

しかしパーセチニクが営む事業はロンドンの亡命ロシア人社会だけでなく、33人のFSB工作員が常駐する海外の諜報拠点としては最大規模の駐英ロシア大使館も注目していたはずだ、とMI5は指摘する。パーセチニクはロシアの“お尋ね者”亡命者リストの筆頭にあがっていると、MI5は彼に警告を発していた。そのリストの数行下には、リトビネンコの名前もあったという。

パーセチニクにとってソールズベリー暮らしは、ケリー博士との友情があったにせよ、妻や家族が呼べない孤独なものだった。

01年夏、MI5はパーセチニクの身辺警護を解除した。彼がロシアの警察や諜報機関がどう出るかを知り尽くしているリトビネンコと再会し、どう身を守るかを相談したのは、このころではないか――怪死3人組のつながりを調べる諜報関係者はそうみる。

リトビネンコについて確かなことは、この時点でFSBの出世街道から外れていたということだ。FSBの前身、ソ連国家保安委員会(KGB)長官だったプーチンがロシア大統領に就任し、リトビネンコは目障りな存在になっていたからだ。

リトビネンコはパーセチニクやケリー博士にどんなアドバイスをしたのか。パーセチニクは死体で発見される前日の01年11月21日、会社から帰宅する際「いたって健康で気分も上々」だったという。スタッフによれば「これから夕食をつくるのだと話していた」ほどだ。

翌朝、パーセチニクは会社の会議を欠席した。心配した秘書が自宅を訪れても応答がなく、警察が調べたところ、自分のベッドでこと切れていた。遺体解剖の結果も、解剖がいつどこで行われたのかも明らかではない。ケリーの遺体が発見されたのはそれから約2年後のことだ。

自由民主党のノーマン・ベーカー議員は、先のBBC番組でケリー他殺説を強調した。これがきっかけとなって3人の死をめぐる陰謀説がネットを駆け巡り、ベーカー発言は何千というサイトに掲載されるようになった。MI5もこの他殺説を検証し始めている。=敬称略

   

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