プーチン・ロシアのエネルギー地政戦略1

2006年2月号 GLOBAL

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 2005年9月8日、ドイツの首都ベルリンで結ばれた一つの契約が、今後の世界秩序のあり方を大きく変化させ得る戦略的意義を有していることを、東アジアの片隅に住む大多数の日本人はまだ気付いていないかもしれない。

 この日、訪独中のロシア大統領プーチンとドイツ前首相シュレーダーの立会いのもと、露ガスプロム社と独E・ON社、独ヴィンターシャル(独BASFの100%子会社)が、ロシアの旧都サンクト・ペテルブルグ近郊の港ヴィボルグと北ドイツ沿岸のグライフスヴァルドをバルト海海底経由の二本の天然ガスパイプライン(PL、各全長1189キロメートル)で繋ぐ「北ヨーロッパ天然ガスパイプライン」の建設契約に調印した。

 この契約に込められたプーチン・ロシアの地政戦略上の狙いを理解するには、03年7月にロシア石油最大手ユコスを舞台に起きた事件から今日に至るまで、プーチン政権が国内外の諸勢力と繰り広げてきた闘いの軌跡をもう一度振り返ってみる必要がある。

ユコス事件の背後にドイツの影

 ロシアの豊富なエネルギー資源を地政戦略上のツールとして最大限に行使し、できるだけ自国に有利な地政戦略環境をつくりあげたうえで世界経済と統合していく。そのためにロシアにも米欧石油メジャーに比肩する巨大国営エネルギー企業を設立する――こんな国家戦略を描くプーチン政権にとって、ユコスを率いる若き資本家ミハイル・ホドルコフスキーは、どうしても排除しなければならない存在だった。

 ホドルコフスキー自身が、露石油大手シブネフチ社との合併を通じて、世界規模のロシア民間石油会社「ユコス-シブネフチ」の設立に動き、これと相前後して米系石油メジャーとの間で合併会社の一部株式譲渡に関する交渉を開始するなど、プーチン戦略と真正面から対立する動きをしていたからだ。

 だが、03年10月25日に脱税容疑でホドルコフスキーが逮捕されたのを境に、ユコスはプーチン政権が進める露エネルギー産業大再編の波に飲み込まれていく。注意すべきは、ドイツ資本が特に際立った動きを見せていることだ。

 ユコスが巨額の追徴課税で攻め立てられていた04年8月11日、アガネシアン露連邦エネルギー庁長官が「ロシア全体の石油生産量の15~20%は国家が支配すべきだ」と表明した翌日、ロシア法務省はユコス社の最大生産子会社ユガンスクネフテガスの資産評価の委託先としてドイツの投資銀行ドレスナー・クラインウォート・ワッサースタイン(DrKW)を指名した。

 同年9月14日、ロシアの天然ガス独占企業体ガスプロムと国営石油会社ロスネフチとの合併計画が発表された。政府が100%保有するロスネフチ社の全株式とガスプロム社の一定株式を交換することで、政府のガスプロム社株の保有率を38・4%から50・1%に引きあげ、ロスネフチはガスプロムの石油子会社ガスプロムネフチに合併される。これにより、ガスプロムがロシア巨大国営エネルギー企業の母体となることが明らかになった。

 同年11月19日、ロシア連邦財産基金が、ユガンスクの株式76・8%の競売を12月19日に実施すると発表する。その10日後、ガスプロムと石油分野の戦略的発展に関する顧問契約を10月に結んだドイツ銀行が、「ユガンスク社など露石油会社四社の買収を検討すべき」との報告書をガスプロムに提出した。ガスプロム石油子会社ガスプロムネフチ社がユガンスク競売に応札すると正式表明したのはその翌日である。

 12月に入ると、ガスプロムはユガンスク買収原資として西欧銀行団から100億ドルの融資を受けることが明らかになるが、この銀行団にはドイツ銀行のほか、DrKW、オランダのABMアムロ、フランスのBNPパリバとカリヨン、DrKW、アメリカのJPモルガン・チェースといった大銀行が名を連ねている。

 プーチン政権のユコス攻撃の端緒は、ドイツの情報機関からの情報提供に始まるという説がある。フランスのニューズレター「インテリジェンス・オンライン」誌(04年10月22日)によると、ユコス攻撃が開始される5カ月前の03年2月10日、シュレーダー首相が訪独したプーチン大統領に対して、ドイツの対外情報庁(BND)が入手したユコス関連企業の資金洗浄(マネーロンダリング)工作に関する報告書を手渡したという。

 協調融資(シンジケートローン)の組成といい、この情報提供説といい、ドイツが官民あげてロシアのエネルギー大再編に深く関与していることをうかがわせる。

独露連携の戦略的背景

 この独露連携の戦略的背景を理解するうえで参考になるのは、米国のシンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)東欧担当部長のジャヌス・ブガイスキーが執筆した「冷たい平和」(Cold Peace ―Russia’s New Imperialism)である。

 同書によると、プーチン政権はロシアの豊富なエネルギー資源を再び国家の統制下に置きつつ、ウクライナを含む東欧地域での影響力の回復を進めているという。その延長線上に、「欧州連合(EU)とロシアによるユーラシア同盟の構築」と「米国―EUの環大西洋同盟の弱体化」という戦略的狙いがある。

 昨年末、国際エネルギー機関(IEA)が警告を発したように、現在、EU諸国はそのエネルギー供給をロシアに大きく依存している。例えばドイツは、天然ガスの約41%をロシアからの輸入に頼っており、その依存率は今後とも上昇するだろう。したがって今後、独仏を中心とするEUとロシアがエネルギーを軸に戦略的関係を深めていく可能性が十分にあるのだ。独露間の天然ガスPLはウクライナ、ベラルーシ、ポーランドといった東欧地域に敷設してある。米国はもっとこれらの地域に深く関与し、EU・ロシアのユーラシア同盟の動きを牽制すべきだ、というのがブガイスキーの結論である。

 ブガイスキーはその名から明らかなようにポーランド系移民の子孫で、強硬な反ソ・反露派で知られるズビグニュー・ブレジンスキー元米大統領補佐官の流れを汲む米戦略家の一人でり、彼らはEUとロシアの緊密化を危険な兆候と感じているのだ。米英主導のイラク攻撃に独露が仏とともに公然と反対したのは記憶に新しい。ユコス事件とその後のロシア巨大エネルギー企業の設立の戦略的背景に「独露を軸とした対米ユーラシア同盟の構築」という隠された狙いがある、と見るのは無理もないと言える。

ウクライナに打ち込まれたクサビ

 ユコス事件を同様の文脈から解釈しているアメリカの戦略家がもう一人いる。ネオコン派のブルース・ジャクソンである。ホドルコフスキー逮捕の三日後、ワシントン・ポスト紙に掲載された「プーチン・ロシアの失敗」(The Failure of Putin’s Russia)という論評記事で「ユコス事件は、ロシアにおける単なる民主主義の後退や反ユダヤ主義の復活といった問題にとどまらない。プーチン政権のウクライナなど近隣諸国に対する新たな帝国主義的野心の表れでもある」と論じている。

 ジャクソンは、冷戦終結後に東欧・バルト諸国の北大西洋条約機構(NATO)加盟を推進した陰の立役者であり、03年2月の「ヴィルニアス・グループ宣言」(東欧・バルト諸国が米英主導のイラク侵攻支持を表明した宣言)をまとめ、ロシアに急接近する「古い欧州」(独仏)から「新しい欧州」(東欧・バルト諸国)を分断した張本人である。

 彼らの戦略思考は、現代地政学の父、英国のハロルド・J・マッキンダーの「海洋大国 対 大陸大国」という枠組みが底にある。海洋大国(seapower)の大英帝国にとって、大陸大国(landpower)同士のドイツと帝政ロシアが同盟関係を構築してしまったら、ユーラシア大陸を完全に支配されてしまうから、独露同盟の構築を阻止するために東欧地域が大きな鍵を握っているとしたマッキンダー地政学の要諦は以下の言葉に集約されている。

Who rules East Europe commands the Heartland(東欧を支配する者がユーラシアを制す)

Who rules the Heartland commands the World-Island(ユーラシアを支配する者が世界-島を制す)

Who rules the World-Island commands the World(世界-島を支配する者が世界を制す)

 では、米国は独露同盟にどんな対抗手段を打てるのか。論理的に考えれば、①ドイツの後押しで進行中の「ユコス解体と露一大国営エネルギー企業設立」の動きを阻む、②独露を地理的・経済的に分断するために、ガスプロムが対独輸出する天然ガスの4分の3が通過するPLの経由地ウクライナに親米政権を樹立する――の二つである。

 04年11~12月にプーチン政権はまさにこの両面で試練にさらされた。ウクライナの「オレンジ革命」への米国の直接間接の介入の実態については海外メディアで分析されているので、①について詳しく見よう。

   

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