2006年2月号 POLITICS
出口のドアを開けたら、また別の部屋の入口だった。その部屋を進むと、また前の部屋の入口をくぐっていた。子供のころの、遊園地の鏡の間での経験は誰にもあるだろう。そう、お化け屋敷より嫌な、くらくらするような感じを覚えていることだろう。
日銀が金融の量的緩和政策の出口に言及しだしたのは05年8月からだった。岩田一政副総裁が8月27日に、米カンサスシティ連邦準備銀行主催の恒例のセミナーで口火を切り、9月29日の大阪での記者会見で福井俊彦総裁がその工程表を示してみせた。
量的緩和の解除については、「2006年度に入る前を否定しない。あるいは、入って数カ月たった感じ」。かつて新聞は金融政策の変更について1、2カ月前から「長距離砲」と称する観測気球を放つ時代があった。ごひいきの阪神優勝の余勢を勝ってか、いまや場外ホーマーを放ったのは福井総裁自身なのだ。
5月20日の金融政策決定会合で、日銀は量的緩和の数値目標となる当座預金勘定の下ブレを認める決定を下した。その際、福井総裁は30兆~35兆円とする当座預金残高の目標そのものの引き下げを考えたが、財務省とタッグを組んだ武藤敏郎副総裁に阻まれた――。
事情通の間で流れたそんな解説はどこへやら。だが今回は、当座預金残高の引き下げどころか、量的緩和政策をやめ、金融政策の舵取りを金利の世界に戻そうという話である。財務省からの抵抗は、もっと強くてしかるべし。
素朴な疑問を解く鍵は景況の好転にある。企業から家計への所得移転が起き、景気が予想外に息長く拡大している。企業の2005五年度の決算も上方修正の動きが相次いでいる。日銀がベンチマークとしてきた全国消費者物価指数(2000年=100)も、05年11月の総合指数(生鮮食品などを除く)が前年同月比0.1%上昇と、特殊要因を除けば実質7年7カ月ぶりにプラスに転じた。
景気回復とデフレ脱却の動きが日銀を後押ししたのだが、より重要な要素がある。株価と地価という資産価格の反転だ。
日経平均株価は12月下旬に1万6000円台をつけ、2001年4月の小泉政権発足時の水準を上回ったうえ、東証一部の株式時価総額は510兆円を超えて当時を150兆も上回った。銀行や企業は保有株に含み益を抱え、ネットトレーダーたちも順回転している。
地価もしかり。全国の基準地価はまだ前年比で4.2%下落したが、これは東京のど真ん中の土地も北海道の僻地もいっしょくたにはじく単純平均ならばこそ。株式と同様に加重平均ではじけば、地価は全国ベースでもプラスに転じている。もちろん、光と影は強烈なコントラストを描いているにせよ。
かくて、量的緩和からの出口の条件は整った、というのが福井執行部の判断だ。ならば、竹中平蔵総務相らは手を拱いているだけなのか。否。すでに、ひとつのクサビを打ち込んでいる。元財務省エコノミストらが提唱し、中川秀直自民党政調会長はじめ小泉首相側近が飛び乗ったインフレ目標論がそれだ。
インフレ目標とは、中央銀行が示す望ましい物価水準。例えば、欧州中央銀行(ECB)は2%を望ましい物価水準として掲げている。日本の場合も、例えばECB同様に2%を望ましい物価水準としておけば、消費者物価がプラスに転じたからといって、日銀がいきなり本格的な金融引き締めに転じることはないという安心感を市場に与えることができる。
竹中氏の側近エコノミストだった岩田副総裁はインフレ目標より少し表現を和らげてインフレ参照値といい、「物価安定の錨」という表現を使う。日銀内には須田美矢子審議委員のようにインフレ参照値の導入に否定的な意見もある。世の日銀ウオッチャーたちの間でも、インフレ参照値をめぐって論争が繰り広げられているが、事の本質は単なる技術論ではない。
国と地方の政府債務が06年度末段階で775兆円に達するなかで、長期金利の跳ね上がりをいかに抑えるかという「国債(政府債務)管理政策」こそが、量的緩和からの出口の向こうに待っている宿題なのだ。長期金利にショックを与えては大変という配慮が求められているからこそ、福井総裁は出口に当たっても慎重なペースでと繰り返すのだ。
量的緩和の解除に際しても、直ちに誘導対象となるコール金利の引き上げを促すことなく、数カ月はゼロ金利を継続する「慣らし運転」をするだろう。金利の世界に戻ってからも、いきなり強引で大幅な利上げをするようなことはしない。
慎重なペースで(At a measured pace)。米連邦公開市場委員会(FOMC)がフェデラルファンド(FF)金利引き上げのたびに使ってきた、この常套句を福井日銀は拝借することになると見てよい。それは、ゼロ金利の下でジャブジャブに掴み金をばらまく量的緩和の世界とは異なるが、依然として金融がだぶつき気味な世界である。
実は、マスコミが量的緩和解除の時期にばかり気を取られた05年9月29日の講演で、福井総裁自身がハッキリと認めているのである。「経済がバランスのとれた持続的な成長過程をたどる中にあって、物価が反応しにくい状況が続いていくのであれば、引き続き緩和的な金融環境が維持されていくことになる」と。
このメッセージの名宛人は、長期金利ばかりでない。株価や不動産価格など資産価格全体なのだ。7カ国財務相・中央銀行総裁会議は、米国経済の金属疲労を踏まえ、構造改革を通じた日本や欧州の成長かさ上げを打ち出した。財政がない袖を振れないなか、構造改革を後押しするのは「引き続き緩和的な金融環境」であり、「民間のリスクテークの応力の高まり」であり、「資産価格の上昇」であろう。
小泉政権の打ち出す「小さな政府」は中曽根政権の「増税なき財政再建」を髣髴とさせる。中曽根政権の「民活(民間活力の導入)」路線も、「規制改革」の名で復活した。安倍晋三次期首相の下で戦うと想定される、07年の参院選のことが頭から離れない中川政調会長と、次期政権への鞍替えに余念のない竹中総務相にとって、選挙まで消費税の引き上げは封印するほかない。
もちろん、歳出カットだけではプライマリーバランス(基礎的財政収支)均衡はともかく、その先にある政府債務の削減には程遠い。「増税なき財政再建」のパズルを解く鍵は、与謝野馨経済財政担当相が「悪魔のささやき」と呼ぶインフレの達成なのである。量的緩和の解除などとんでもない。万一、解除してもゼロ金利はずっと継続すべし。
福井執行部としても、その声はムゲには否定できない。あふれるマネーが株と不動産に流れ込んだことで20年前にバブルが生じたが、今またマーケットはそのデジャヴュ(既視感)を抱き始めた。
そういえば、岩田副総裁の使った「錨」という言葉。「日本の低金利は、世界の金利のアンカー(錨)になる」という、かの宮沢喜一元蔵相の「アンカー理論」を思い起こさせないか。
歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は……。そんなことを承知のうえで大芝居を打つ福井総裁にとって、出口の先にはどんな光景が見えているのだろう。