プーチン・ロシアのエネルギー地政戦略3

2006年2月号 GLOBAL

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 話をヒューストン裁判に戻そう。05年2月16~17日の二日間、ドイツ銀行の請求に基づく審理が行われた。判決は22日に下されるはずが、再び奇妙な出来事が起こる。ドイツ銀行側の弁護を担当する弁護士事務所の職員が、同行が裁判所に提出した書類の入ったケースを裁判所から持ち出してしまったという理由で、25日に延期となったのだ。

 第2期政権スタート直後のブッシュ大統領が、2月21日に欧州歴訪を開始、23日にシュレーダー首相、24日にプーチン大統領との会談が予定されていた。独露の戦略的関係の構築に直結するヒューストン裁判の判決日が、米独首脳会談の二日後、米露首脳会談の翌日に設定されたのはどう考えても偶然とは思えない。

 米独首脳会談当日の2月23日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「スパイ時代につくられた友情が今、ロシアに配当をもたらしている」(Friendship Forged in Spying Pays Dividends in Russia Today)と題した記事を第一面に掲載した。

 それによると、ドレスナー・バンク・ロシア現社長のマチアス・ヴァーニッヒ(Matthias Warnig)は、冷戦時代は旧東ドイツ諜報機関シュタージの工作員であり、当時、ロシアの諜報機関KGBに所属して東ドイツで勤務していたウラジーミル・プーチンのスパイ活動を支援するなど、二人は当時から知り合いだったという。

 ヴァーニッヒは、露エネルギー産業大再編に関与しているDrKWのロシアビジネス統括者であり、現在はガスプロム取締役のメンバーでもある。そんなドイツ側のキーパーソンとプーチン大統領との冷戦時代の秘密の関係を暴く爆弾記事がこんなタイミングで載るあたり、独露首脳との会談に臨むブッシュ大統領へネオコンを含む一部勢力が放った強烈なメッセージだったに違いない。では、そのメッセージは届いたのか。

 2月25日、ヒューストン裁判所はドイツ銀行の請求を認め、ユコスの自己破産法適用申請を棄却する判決を下した。これによりブッシュ大統領は、エネルギーを軸にした独露の戦略的関係の構築を事実上容認したといってよい。

 コンドリーサ・ライス米国務長官はこのブッシュ訪欧に先立つ05年2月11日付露コメルサント紙のインタビューで「ロシアとは生産的かつ建設的な関係にある。(ワシントンの)一部にはロシアをG8から排除すべきとの声もあるが、それは過ちだろう」と述べていた。ネオコン派と一線を画すライス外交の方向性の一つが示されたと言えるかもしれない。何れにせよ、昨年末のヒューストン判決とウクライナ“オレンジ革命”によって破綻しかかったプーチン・ロシアの国家戦略は、辛うじてその命脈を保ったのだ。

ブッシュに放たれたメッセージ

 とはいえ、この一連の騒動で、プーチン政権が当初から描いていた露エネルギー産業大再編のシナリオは大幅に狂った。

 2月25日の判決を踏まえて、プーチン政権内のメドベージェフ大統領府長官(兼ガスプロム社取締役会議長)やミーレル・ガスプロム社長らは「ロスネフチとの合併によるガスプロム社の再国有化」という当初のシナリオへの回帰を目指した。

 だが、バクダンチコフ・ロスネフチ社社長やクレムリン内の彼の後ろ盾のセーチン大統領府副長官(兼ロスネフチ社取締役会議議長)といったロスネフチ側はこれに激しく抵抗し、ガスプロム再国有化計画は完全に暗礁に乗り上げた。ウクライナ「オレンジ革命」ショックと相まって、プーチン大統領の権力基盤の弱体化が囁かれたのはこのころである。

 そんな状況が続いていた4月4日付の露週刊経済誌エクスペルトに、これまでマスメディアの直接取材には殆ど応じなかったメドベージェフ大統領府長官のインタビュー記事が掲載され、「もし我々がエリートを結集できなければ、ロシアは統一国家としてはこの世から消えてなくなるかもしれない。ロシアが崩壊と比較したら、ソ連の崩壊なんて幼稚園のパーティーみたいに見えるであろう」と述べたのだ。

 ロシア国家分裂の可能性に言及し、エリートの結集を呼び掛けたこのメドベージェフ発言は、プーチンの意向を受けてロスネフチ側に発した警告のメッセージではなかったか?

プーチン戦略の再稼動

 この後、プーチン政権はロシア国内で徐々にその態勢を立て直していく。象徴的な第一歩は、5月17日、メドベージェフがガスプロム再国有化の新たなスキームを発表したことであろう。

 これによると、ロシア政府が100%保有する特別目的会社ロスネフテガスにロスネフチの株式100%を移管する。このロスネフテガスが西側銀行団から資金調達をした上で、ガスプロムの株式10・7%を獲得する。ロスネフテガスはまた、ロスネフチの一定株式を公開市場に新規上場して、ガスプロム株の購入のために西側銀行団から受けた融資を返済する。最後に政府はロスネフテガスの清算手続きを行い、ガスプロムとロスネフチの過半数の株式を直接支配するというものである。

 7月20日付露ベードモスチ紙が「ロスネフテガス社がABMアムロ、JPモルガン・チェース、英国バークレイズ、BNPパリバ、DrKW、米国モルガン・スタンレーの欧米銀行団と、ロシア企業向けとしては過去最大の73億ドルの融資交渉を行っている」と報じた事で、新スキームは俄然現実味を帯びた。

 このころになると、プーチンの国家戦略が実現するか否かの焦点は、ロシアからドイツの国内情勢に移行していた。プーチン大統領とともに独露の戦略的関係の構築を志向していたシュレーダー首相が、与党SPD(ドイツ社会民主党)のノルトライン・ウェストファーレン州議会選挙大敗、9月18日の繰り上げ解散総選挙では野党CDU/CSU(キリスト教民主/社会同盟)と痛み分けに持ち込んだものの退陣を余儀なくされたからだ。

 大連立政権の首相となったCDUのメルケル女史は 「大西洋同盟の復活」を掲げる米国重視派であり、米ネオコン派を含む一部勢力の強い影響下にあったことは、総選挙前の8月16日にポーランドの首都ワルシャワを訪れ「シュレーダー首相はポーランドや他の東欧諸国を独露関係に関する相談から排除している。CDU政府が誕生すれば、ポーランドの頭越しにいかなる決定も下さない。仏独露枢軸の考え方も拒絶する」と述べたことからも明らかだった。

 経済の構造改革の是非をめぐって争われた今回のドイツ総選挙は、もうひとつ、シュレーダーCDUが志向するエネルギーを軸にした対露戦略的関係の構築か、メルケルCDU/CSUが掲げる米国との伝統的な「大西洋同盟」の復活か、という地政戦略上の争点もあったのだ。

ガスプロム再国有化の新スキーム

 投票日の10日前の9月8日、プーチン大統領がベルリンを訪問し、冒頭で書いたような「北ヨーロッパ天然ガスPL」建設契約を締結した。日本ではほとんどの人が、この契約が持つユーラシア地政戦略上の衝撃度に気付いていないかもしれない。それは、バルト海海底を通る二本の天然ガスPL(合計輸送能力は年550億立方メートル)がウクライナ、ベラルーシ、ポーランドを経由せずに独露を結び付けるという点にある。

 現在、ガスプロムは、西欧向けに年間1160億立方メートルの天然ガスの4分の3をウクライナ経由のPLで、約4分の1をベラルーシ-ポーランド経由のPLで輸送している。とすると、このバルト海ルートのPLが完成すれば、ベラルーシ―ポーランド経由のPLは不要となり、ウクライナ経由のPLへの依存度も下げることができる。

 これは即ち、マッキンダーからブガイスキーやジャクソンに至る英米戦略家が、ユーラシア地政戦略上の要衝と位置づけてきたポーランドやウクライナなど東欧諸国の意義が著しく低下することを意味する。つまり、バルト海ルートのPL建設合意とは、昨年末に相次いで仕掛けられた二つの罠(ウクライナ政変とヒューストン判)を突破すべく、プーチン・ロシアが打った起死回生の一手だったのだ。

 だとすれば、同じ9月8日、ウクライナのユーシェンコ大統領が、突如、「オレンジ革命」の同志ティマシェンコ首相率いる内閣全員の総辞職を発表し、その外交上の軸足を欧米寄りからロシア寄りに大きく移行させ始めたのも十分理解できる。プーチン大統領は、内閣総辞職の騒動の渦中にあるユーシェンコ大統領に、シュレーダー首相の執務室から電話をかけたという。プーチンはドイツと組んで、一度は米国に奪われたウクライナを再びその影響下に取り戻したのである。

 また、やはり9月8日、メルケル現首相が、自らの要請でベルリンのロシア大使館にプーチン大統領を訪問し、新政権誕生後もバルト海ルートのPL建設契約を変更しないと約束するとともに、ロシア語で「(独露両国の)戦略的関係を発展させましょう」と述べたという。筆者は、メルケルにプーチンとの会談を促したのは、独露間の新たな天然ガスPL建設で合意し、ロシアを含む東方に自国経済の長期的な戦略的方向性を定めたドイツ財界だったのではないか推測しているが、今回の総選挙の裏テーマともいうべき「ロシアか米国か」という争いは、18日の投票日を待たずして決着済みだったといえるだろう。

 この9月8日、もう一つ重要な取り決めがベルリンで交わされている。ガスプロム再国有化に向けた新たなスキームに欧米銀行団が資金供与することで正式合意に達したのだ。

 これによると、西側銀行団が、ロスネフテガスによるガスプロム株式10・7%の購入資金として、ロシア企業向けとしては史上最高額の75億ドル(一年間の短期融資)を供与する。担保はロスネフテガスが100%保有するロスネフチ株49%。ロスネフチ社の新規株式公開による資金調達が完了した段階でこの融資は返済される。この欧米銀行団には、ABMアムロ、DrKW、JPモルガン・チェース、モルガン・スタンレーが含まれる。この4行はロスネフチ社の新規株式公開のアドバイザーも務める。また、バークレーとBNPパリバもここに加わる可能性がある。

 この05年9月8日という日は「プーチン・ロシアの国家戦略が欧米金融資本に受け入れられた」という意味で、まさに冷戦後の歴史の一ページに刻まれるべき画期的な一日なのである。ドイツに先立って総選挙を行い、小泉自民党の圧勝でうかれる日本は、ユーラシアの西の果てで起きていたこれらの動きを読むことを怠り、それゆえに11月のプーチン訪日では北方領土問題でも東シベリア石油PL問題でも、ほとんどロシアから得点できなかった。自業自得というべきだろう。

   

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