プーチン・ロシアのエネルギー地政戦略2

2006年2月号 GLOBAL

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 前述の通り、ユガンスクの競売が12月19日実施と発表されると、同社買収にガスプロムの石油子会社ガスプロムネフチが名乗りをあげた。

 解体の危機に瀕したユコス経営陣が打ったのは前代未聞の奇手だった。競売予定日の5日前、ロシア国内ではなく米テキサス州ヒューストンの連邦破産裁判所に自己破産請求を提出し、破産法が定めた資産保全の権利を盾にユガンスク売却差し止めを申請したのだ。

 ユコス社がテキサス州にオフィスを開設したのはこの月に入ってからで、それまで米国内に財産を持たず、業務もしたことがない。そのユコスに米国で自己破産を求める権利があるとは到底思えないのだが、請求から2日後、同裁判所は「ユコス社資産の売却は十日間停止されるべきである」との判決を下した。また、ユガンスク買収原資を融資する予定だった西側銀行団6行に対して、ユガンスク競売への参加を禁じる緊急命令を出した。

 純粋な法律論からいえば明らかに不可解なこの判決の背後に、ブガイスキーやジャクソンら独露同盟警戒派に繋がる米国内の一部勢力の策動を疑わざるを得ない。このヒューストン判決が、ガスプロム社を軸にした露エネルギー産業再編というプーチン戦略に与えた打撃は小さくなく、12月19日に行われたユガンスク競売では、ヒューストン判決を回避するためにプーチン政権はトリッキーな「迂回」を余儀なくされた。

 まず、ガスプロムネフチは競売への参加自体を取りやめ、代わってバイカル・フィナンシャル・グループという無名のダミー会社に93・5億ドルで落札させた。その2日後、ガスプロムはガスプロムネフチを競売実施前の17日に売却したと発表、9月に行ったロスネフチとの合併を白紙に戻し、ロスネフチとの法的関係を断ち切った。そのうえでロスネフチにバイカルの株式100%を買収させたのだ。

 ユコスは当時、ガスプロムに限らず、ユガンスクの競売に関わったいかなる企業も訴訟対象にするとしていた。が、ガスプロム社と違い、米国内でのビジネス展開を当時予定していないロスネフチにとって、米国内にしか法的効力を有しないヒューストン判決はほとんど意味を持たなかった。

 ただ、ロスネフチによるユガンスク買収がもう一つクリアしなければならない問題は、買収資金93・5億ドルの調達先の確保である。

不可解なヒューストン判決

 前述の通り、ガスプロムは、ユガンスク買収原資100億ドルを西側銀行団6行からの融資で調達する予定だったが、ヒューストン判決でこれが封じられた。窮地に陥ったプーチン政権に、間髪入れず救いの手を差し伸べたのは中国国営石油会社(CNPC)だった。

 ロスネフチによるバイカル買収の翌日、プーチン大統領はドイツを訪問し、CNPCがユガンスクの油田開発に参加する可能性について言及している。はたせるかなその直後、ガスプロムのミーレル社長が、CNPCと石油分野を含む新たな戦略的協調の覚書に調印したと発表した。

 2カ月前の10月14日、プーチン大統領は中国を公式訪問している。国境問題に関する四文書に調印、国境紛争を完全解決したが、中国側が期待していたエネルギー分野については、ガスプロムとCNPCが天然ガス分野での戦略的協調関係を謳った文書に調印しただけで、日中間で争奪戦となっている東シベリア石油PLなど石油分野での協力関係については進展が見られなかった。

 その理由は、訪中の直前に中国人記者とのインタビューでプーチン大統領自身が述べている。「(東シベリア石油PL問題に関して)我々は自らの国益を優先する必要がある。我々はロシア極東地域の領土を開発しなければならない」。中国側が推す「大慶ルート」ではなく、この時点では、むしろ日本側が推す「太平洋ルート」を優先する意向を示唆したのだ。

 ところが、2カ月で形勢が変わった。ドイツでのプーチン発言やミーレル発言は、ロシアの対中エネルギー戦略が一大転換し始めた事を示唆している。劣勢を覆すため、10月の時点で中国はロシア政府に対してユガンスク買収資金の一部をCNPCが提供するとの申し出を行っていた可能性が高い。ロシア政府としても、中国の融資を受けることを前提に軌道修正を図り始めたのであろう。プーチン訪中の際、ガスプロムはCNPCとの間で天然ガス分野の協定しか結ばなかったにもかかわらず、ヒューストン判決の翌日、石油分野の協定も締結したことからもそのあたりの事情がうかがわれる。

 実際、05年1月初頭、フリステンコ産業エネルギー相とバクダンチコフ・ロスネフチ社長が極秘に訪中し、CNPC経営陣や政府関係者と会談。その結果、ロシアは中国に2010年までに計4840万トンの石油を供給し、その代わりCNPCはロスネフチに60億ドルの中期融資を提供する契約に調印したと言われている。この情報を裏付けるかのように、05年2月1日、ロシアのアガネシアン・エネルギー庁長官は「ロスネフチはCNPCから中国への将来の石油供給契約の前払い代金として60億ドルを受け取った」と発言している。

 ロシア政府もロスネフチもこの資金がユガンスク買収に充てられたとの見方は否定しているが、同社には昨年12月、自社の保有する石油開発権益の一部をガスプロム社に売却することによって17・5億ドルを調達した以外、これほど大きな金額の資金を入手した形跡はない。

中国国営石油会社が救いの手

 とすれば、04年12月30日、露フラドコフ首相が「東シベリア石油PLに関して、日本の推す太平洋ルートに決定した」との談話を出したにもかかわらず、実態は「中国ルート」優先着工の可能性を十分に残す内容だった理由が良く分かる。これは、起点のタイシェットから中間地点で中国国境まで僅か69キロの場所に位置するスコボロジノまで三年半かけて建設するが、残るルートは後からつくるという「二段階建設」案で、そこから先、ナホトカまでの「幹線」と、大慶までの「支線」のどちらを優先着工するか、その時期も含めて明示されなかったのだ。

 05年4月19日、訪日を目前に控えたフリステンコ露産業エネルギー相が日本人記者団を前に「スコボロジノからナホトカまでは鉄道で輸送し、中国にはパイプライン輸送する方式が現実的だ」と述べ、中国ルートの優先着工が決定的となった。

 だが実際には、CNPCから60億ドルの供与を受けた昨年末から今年はじめの時点で、プーチン政権は2010年までに4840万トンの石油供給契約とともに、この石油を確実に輸送する東シベリア石油PLの「中国ルート」優先着工を密約していた可能性が濃厚である。

 恐らくプーチン政権としては、極東開発の問題もあり「太平洋ルート」の方がベターと考えていたはずである。ただ、プーチン政権の最優先課題は、あくまで露エネルギー産業大再編と独露の戦略的関係の構築にあり、現時点では優先順位の低い東アジア方面のエネルギー戦略での多少の犠牲はやむを得ないと判断したのだろう。

 プーチン大統領は9月5日、西側の研究者・学者との直接対話を目的とした第二回バルダイ会議で、東シベリア石油PLに関して大慶ルートの建設が先になるが、ナホトカへもパイプラインを建設すると述べた。これは彼の本音と考えていいだろう。

東シベリア・パイプラインの逆転劇

 しかし、ヒューストン判決が効力を持ち続ける限り、ガスプロム社を軸にした露エネルギー産業大再編の実現はままならない。そこで、立ち上がったのがドイツ銀行だった。

 04年12月28日、ドイツ銀行は、米国でのユコス社の自己破産請求を取り消すようヒューストン裁判所に請願書を提出した。先にガスプロム社が売却したガスプロムネフチ社も、05年2月14日に同様の請願書を同裁判所に提出した。ここに、プーチン政権の国家戦略を体現するガスプロムネフチとこれを支援するドイツ銀行と、独露同盟警戒派の米国内一部勢力の支援を受けるユコスが対決することになったのだ。

 この裁判でガスプロムネフチ側の弁護引き受けたのが、ヒューストンを拠点とする米大手弁護士事務所ベイカー・アンド・ボッツである。レーガン政権では財務長官として「プラザ合意」を仕切り、父ブッシュ政権時代には国務長官を務めたジェームズ・ベーカー一族が代々パートナーを務め、米系石油メジャーとの関係も深い弁護士事務所なのだ。

 筆者の仮説は、プーチン政権のエネルギー戦略に関して、米国内でもベイカー・アンド・ボッツが代表するエスタブリッシュメントと、独露同盟を警戒する一部勢力の間に意見の衝突があるのでは、というものである。

 04年8月11日、ロシアのアガネシアン・エネルギー庁長官は「ロシア全体の石油生産量の15~20%は国家が支配すべきである」と述べるとともに「もし、ユガンスク売却が公正明大に実施されれば、資産評価額は少なくとも120億ドル以上になるので、買収できるのは巨大な西側企業だけだ」と付け加えている。

 実際、04年11月16日付け英フィナンシャル・タイムズ紙は「ガスプロムはユガンスク買収後、その一部か全てを売却する可能性がある。ガスプロムに近い情報筋によれば、ガスプロムの役割はロシア政府と欧米石油メジャーの一社との仲介者のようなものになる」と報じ、その候補企業として米国のテキサコ・シェブロン、エクソン・モービル、イタリアのENIなどの名を挙げた。また、同年11月29日付露ベードモスチ紙も「情報筋によれば、ガスプロムの石油子会社ガスプロムネフチが世界レベルの会社に近付いたら、シェブロン・テキサコ社やドイツのE・ON、伊ENIなどと株式交換のバリエーションについて検討するかもしれない」と伝えていた。

 プーチン大統領は、ひとたびガスプロム社を軸とした露エネルギー産業大再編が完了したら、それ以外のエネルギー利権に関しては条件次第で米系石油資本を含む外国資本に譲渡するつもりだったのではないか。そうすることで米国とも欧州とも安定的な関係の構築を目指していると推察できよう。ヒューストン裁判におけるガスプロムネフチの弁護をベイカー・アンド・ボッツが引き受けたのもその事情が関係しているのではないか。

 ちなみにロシア政府は、ガスプロムの再国有化(持ち株比率を50.1%まで引き上げ)が完了した時点で、現在、国内株と海外株という形で二種類に分けられ、外資の国内株売買が取引枠も制限されている同社株の取引を完全自由化すると宣言している。

   

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