ディープインパクトに100億円の食指

ドバイのムハンマド殿下が虎視眈々。凱旋門賞に勝てば種牡馬価格は青天井!

2006年8月号 DEEP

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「地上で最も高価な生き物」の称号が、日本産のサラブレッドに与えられるかもしれない。史上最強の呼び声も高いディープインパクト(牡4歳)である。6月25日の宝塚記念も4馬身差の圧勝で、五つ目のGⅠ(最高格)タイトルを重ねた。10月1日には欧州競馬界の最高峰、凱旋門賞(仏ロンシャン、芝2400m)に挑戦。日本馬、いや欧州以外で調教された馬として初の優勝を目指す。仮に勝ちでもすれば、「日出づる国のペガサス」は、100億円に跳ね上がるという観測さえある。

 ディープインパクトは戦績11戦10勝。昨年の3歳三冠レースをいずれも圧倒的な内容で勝ち、シンボリルドルフ以来、21年ぶりに無敗の三冠を達成。12月の有馬記念で、生涯初黒星(2着)を喫したが、今年に入ってからは天皇賞・春、宝塚記念の二つのGⅠを含めて3連勝中だ。父は数々の活躍馬を世に出して日本の競馬を席巻し、2002年に死亡したサンデーサイレンス。国内最大手牧場のノーザンファーム(北海道安平町)で02年3月に生まれ、3カ月後のセリ市場で7千万円(税抜き、以下同)の値がついた。購入したのは東証一部上場の設計ソフト会社「図研」の金子真人社長である(名義は金子真人ホールディングス)。

カネに糸目はつけない殿下

 金子氏は馬主歴11年。馬運の良さは折り紙つきで、2年目に持ったブラックホークがGⅠを2勝。種牡馬となった。01年のセリ市場では、ノーザンファーム生産で後にダービーを勝つキングカメハメハを7千800万円で購入。「一国の宰相になるより難しい」といわれるダービー馬主の座に2年連続で就いた。

 こうした活躍馬は引退後、社台グループの種馬場で種牡馬となるのが常だった。社台グループはノーザンファームのほか、社台ファーム、白老ファームなどを吉田照哉氏、勝己氏、晴哉氏の3兄弟で経営。先代の吉田善哉氏(故人)が米国から種牡馬として輸入したサンデーサイレンスの成功で、3兄弟は毎年、高額納税者番付に名を連ねていた。今や、日本の競走馬生産界は社台一色といっても過言ではなく、資本力を武器に、国内外の多くの活躍馬を種馬場のラインアップに並べてきた。

 だが、ディープインパクトが型通り社台で種牡馬入りするかどうかは予断を許さない。世界的な大馬主として有名なアラブ首長国連邦(UAE)ドバイのシェーク・ムハンマド殿下が食指を伸ばしているのだ。

 5月2日、金子氏の所有するユートピア(牡6歳)が、殿下の競走馬所有法人「ゴドルフィン」に400万ドル(約4億6千万円)で売却されることが発表された。ユートピアは3月末、ドバイで行われたゴドルフィンマイル(GⅡ)で圧勝。殿下の目に留まった。米国で活躍馬を輩出したフォーティナイナーの今や数少ない直子で、血統も魅力的だった。今回の売却が、関係者に波紋を広げたのはいうまでもない。何しろ金子氏とムハンマド殿下の取引である。「ディープインパクトにも同じことが起こる」という連想をせずにはいられない。

 ムハンマド殿下が競馬に本格参入したのは80年代。潤沢なオイルマネーを投じて、世界中の高額馬を買い集めてきた。急逝した兄の後を襲って今年、ドバイ首長に就任した。石油資源の枯渇をにらんで商業・観光立国を進めており、競馬も重要な観光資源という位置づけ。いわば国策だから、カネに糸目はつけない。

 こういう人物が一人いると、有力馬の価格は青天井となる。キングカメハメハは一昨年秋に引退したが、種牡馬入り時の価格は21億円だった。父が同じキングマンボで、99年に凱旋門賞で2着と健闘したエルコンドルパサー(02年に死亡)の18億円と比べると割高だった。「ゴドルフィンが20億円を提示したため、社台も21億円で応戦した」という。

 社台グループは従来、値の張る馬を有力馬主と50%ずつ共有することが多かった。種牡馬入りの際の価格を抑えるためだが、キングカメハメハとディープインパクトは金子氏の個人所有。誰に売るかは腹ひとつで決まり、社台にとって難しい状況だ。

 すでに昨秋の三冠達成前から、一部スポーツ紙に「40億円」の見出しが躍っていた。その後、三つのGⅠタイトルを加えており、関係者の間では「最低50億円。遠征の結果次第ではさらに上がる」との見方が一般的だ。仮に50億円として、保険などを加えたシンジケート価格はざっと60億円。種牡馬シンジケートは通常60口、償還は4~5年で、シンジケートは一口1億円。種付け料は2千万~2千500万円となる。

 種付け料を払うのは国内の馬主や生産者である。サンデーサイレンスの最盛期は3千万円だったが、すでに成績の裏づけがあった時期の話。結果を出していない種牡馬に、これほどの額を出す体力は、今の日本の競馬産業にはない。流出を避けても、後には超高額の種を売る難儀な仕事が待っている。社台にとっては、進むも地獄、引くも地獄である。

巻き返す「社台グループ」

 ディープインパクト争奪戦が過熱する背景には、サンデーサイレンスの血が欧米で希少となっている事情がある。産駒は日本でGⅠを62勝。今年、供用された種牡馬も70頭に上るが、海外で走ったり、種牡馬入りした馬が意外に少ないのだ。ディープインパクトに唯一の黒星をつけたハーツクライが、3月にドバイでドバイ・シーマクラシックを勝ったのが海外GⅠ3勝目。種牡馬入りに至っては、皆無に等しい。

 サンデーサイレンス最後の産駒はすでに3歳。今春の世代限定GⅠ(5戦)を一つも勝てなかった。最高傑作のディープインパクトが外に出ない限り、サンデーの血はほぼ、日本だけで消費されることになる。世界最高レベルの血を求める殿下や、ライバルのアイルランドの大馬主「クールモア」にとっても、ディープインパクトは最後の鉱脈なのだ。

 ユートピアの売却交渉は、3月末のドバイの国際レースの直後だったという。金子氏と殿下の代理人の話が数時間に及んだとの証言もある。事実とすれば、ユートピア以外の話題が出なかったと考えるのは不自然だろう。対する社台も生産界の威信をかけて巻き返しを図っている。

 2000年には派手な言動で知られる関口房朗氏(ベンチャーセーフネット社長)が持っていたフサイチペガサスに高値がついた。父は米国の大種牡馬ミスタープロスペクターで、1歳時のセリ価格が400万ドル(約5億6千万円=当時)。2000年のケンタッキーダービーを勝ち、同年に引退。クールモアへの売却価格は非公表だが、6千万ドルとも7千万ドルともいわれ、関口氏は過去の高額馬への投資額をすべて回収してお釣りがくるほどだった。だが、ディープインパクトが凱旋門賞を勝てば、種牡馬価格は「100億円に達する」との観測も出ている。

 かつては海外への門戸を閉ざし、「名馬の墓場」と非難された日本。ディープインパクトが世界から注目されること自体、時代の変化を象徴する。凱旋門賞と、その先の展開から、しばらくは目が離せない。

   

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