前社長秘書が史上最高212億円の損害賠償請求。背後にマンハッタンのやり手弁護士事務所。
2006年7月号 BUSINESS
驕る平家は久しからず──。そんな不吉な予感を漂わせているのは、快進撃が続いているトヨタ自動車だ。
4年連続で最高益を更新し、2006年3月期の最終利益は1兆3721億円。グループ全体の四輪車生産台数は、年内にも米ゼネラルモーターズ(GM)を抜いて世界一になる。しかし、北米で発覚したセクハラ(性的嫌がらせ)問題は、トヨタにも死角が潜む危うさを示した。
絶好調トヨタの「勝利宣言」になるはずだった決算発表を目前に控えた5月初め。アメリカから衝撃的なニュースが飛び込んできた。
北米トヨタ自動車の大高英昭社長(65)から、セクハラを受けたとして、前社長秘書の小林明香(さやか)さん(42)が、大高氏とトヨタ自動車を提訴した問題だ。損害賠償請求額は、1億9000万ドル(約212億円)という前代未聞の金額だった。
ニューヨーク・タイムズ、NBC、フォーブスなど欧米のメディアは一斉に大々的な報道をした。比較的控えめな報道にとどめた日本のメディアとは対照的で、米紙の中には、「ハイブリッドではなく、セックスを燃料とする車」というセンセーショナルな見出しで報じたものもあった。
大高氏は「潔白が証明されると信じている」と疑惑を否定したが、提訴から1週間で辞任に追い込まれた。
好決算のトヨタの収益を支える最大の柱は、低燃費車やハイブリッド車の販売が絶好調の北米市場である。
GMやフォードが経営不安に陥り、日米自動車摩擦の再燃が懸念されているその最中に起きた、北米トヨタ社長を巡る大スキャンダル。トヨタだけの問題ではなく、日米の業界、あるいは日米関係にまで影響を及ぼしかねない。コトの重大性を憂慮したトヨタが、大高氏の更迭で事態収拾を急ごうとしたのが真相だった。
渡辺捷昭・トヨタ自動車社長は、「行動指針の順守、コンプライアンス(法令順守)を徹底しており、あらゆるハラスメント(嫌がらせ)に厳格に対応している」と釈明した。
すばやい危機対応で、トヨタ批判をかわそうとする戦略の巧みさを称える声が業界内外にはある。だが、さすがのトヨタも、米国での「セクハラ問題」を甘く見たという冷ややかな見方もくすぶっている。
それは小林さんの訴えた内容と、小林さん側についた弁護士事務所の辣腕ぶりを知れば知るほど、「212億円の女」の持つ意味が重くなるためだ。
トヨタは今後、裁判で難しい対応を迫られるのは間違いない。米国のセクハラ訴訟では、企業側が敗訴するケースがほとんどで、大概はイメージダウンを恐れ、多額の和解金支払いで矛を収める。そうした事実上の企業側の敗訴が少なくない。
焦点の小林さんは、米国の大学を卒業した才媛で知られる。日本国籍だが、米国永住権も取得済みという。97年にトヨタ・テクニカルセンター(ミシガン州)に就職して、実力を発揮し、02年には北米トヨタのニューヨークオフィスの企画部門に登用され、05年9月に大高社長の秘書に抜擢された。トヨタ在籍は10年弱になる。
40代にはとても見えない美貌が評判で、「トヨタの黒木瞳」と言われてもおかしくなかったらしい。だが、小林さんの訴えによると、大高氏の行動は、恥ずかしいほどストレートで極めて悪質だ。トヨタの対応もお粗末だった。
▽ワシントンへ出張した際、宿泊先のホテルで大高社長は小林さんの部屋に行ってもいいか、それとも小林さんに自分の部屋へ来るかと性交渉を迫った。
▽ニューヨーク市内の公園で、社長はキスを求めてきた。
▽社長のデトロイト出張への同行を拒んだところ、社長は幹部社員に小林さんの分もホテルを予約するよう命令した。
▽小林さんが上級副社長に相談したところ、「当事者間で話し合うように」とだけ言われ、会社は誠実に対応しなかった。
大高氏は「潔白」を主張しているが、訴えの内容を見る限り、大高氏の言動は確信犯的な印象を与える。魔がさしたのだろうか。
大高氏とトヨタに厄介なのは、セクハラ疑惑に加えて、請求された損害賠償金が巨額であることだろう。
原告である小林さんについた弁護士事務所は、ニューヨーク・マンハッタンにオフィスを構える「Ziegler, Ziegler & Associates LLP」。
企業法務関連の業務を得意とし、証券法やビジネス法、雇用関連の訴訟で実績があり、なかでもセクハラ、パワハラなど、雇用現場でのトラブルには積極的に取り組んできた。小林さんを担当するクリストファー・ブレナン弁護士(41)は同事務所の若手ホープだという。
事務所によると、請求した1億9000万ドルのうち、1億5000万ドルは「懲罰的な賠償請求」と説明する。金額の査定には「加害者」の資産が重視されるため、北米市場を席捲している超優良企業のトヨタだけに、個人のセクハラ訴訟では史上最高の請求額になったらしい。
今後の展開はまだ読みきれないが、トヨタが教訓にしているのが、90年代に米国三菱自動車のイリノイ工場で起きたセクハラ問題だ。後手に回った対応で不買運動まで起き、経営に打撃を与えたうえ、女性社員300人以上の提訴では、約3400万ドルで和解が成立した。
このため、トヨタは徹底究明に向け特別調査チームを発足させ、そのチームのトップにはクリントン政権で労働長官を務めたアレクシス・ハーマン氏を起用するなど、事件の影響を最小限に食い止めたい考えだ。
最大の焦点は、トヨタと小林さん側が和解で合意するタイミングと、和解金額とみられる。
事態がこじれればこじれるほど、トヨタには悪いシナリオだけに、トヨタは調査チームの報告を待ち、早ければ6、7月中にも、小林さん側に謝罪し、和解金支払いでの決着を目指す公算が大きい。大高氏がいくら「事実無根」と抗弁しても、トヨタが強硬姿勢を貫き、小林さん側にゼロ回答することは不可能だろう。
ただ、有利な立場にあるとみられる小林さん側がすんなりと和解に応じるかどうかは不透明だ。当然、和解金額を巡る駆け引きも激しくなるのは確実である。
小林さん側のやり手弁護士に攻められると、「トヨタはかなり譲歩せざるを得ない」との観測が根強い。数億円どころか、数十億円規模の「2ケタ」も覚悟する必要が出てくるかもしれないという見方すらある。利益1兆円の勝ち組企業とはいえ、痛い出費となり、痛恨のイメージダウンになるはずだ。
いずれにしても、注目のトヨタ相場は、今後のセクハラ訴訟の「基準値」になるだろう。米国の複数の弁護士事務所が、日本企業のセクハラ問題を狙い撃ちにするきっかけになると警戒する声もある。
一方、トヨタのセクハラ問題が日本車バッシングに火を付ければ、ホンダ、日産自動車など他社にも影響が波及しかねない。トヨタが躓いたセクハラの波紋は、今秋に中間選挙を控えた米国の「政治の季節」の中で、しばらく尾を引きそうだ。