特別リポート/医師の働き方改革/こつ然と消えた「過労死恐れの医師」2万人/名ばかりの「宿日直」や「自己研鑚」も/ジャーナリスト・杉谷剛

号外速報(04月16日 20:20)

2024年5月号 DEEP
by 杉谷剛(東京新聞編集委員)

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三浦半島の横須賀市部。JR横須賀線衣笠駅で降りると、「三浦一族ゆかりの地・衣笠」と書かれた商店街の横断幕が目に飛び込んできた。源頼朝旗揚げの功労者、三浦義明の衣笠合戦で知られ、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台にもなった地だ。

駅から歩いて5分のところにある約200床の衣笠病院。4月に始まった医師の働き方改革について聞こうと、医療政策に詳しい同病院理事の医師、武藤正樹を訪ねた。

5年の猶予期間を経てスタート

衣笠病院理事の武藤正樹氏

「厚労省の働き方改革はすでに大成功だね。年間の特例的な時間外労働の上限1860時間を超える医者が2016年には、2万人もいたのに、今はほとんどいなくなった。『医師の働き方は劇的に改善した。素晴らしい』と、そう言ってあげればいいんじゃないか」

一瞬真意が読めずに戸惑ったが、冗談が好きな武藤らしい皮肉たっぷりの説明だった。

労働者や市民による長年の過労死防止運動を受け、「過労死等防止対策推進法」が成立したのは14年。翌年には電通の新入社員だった高橋まつりさんが過労自死したのを機に、法規制を求める世論がいっそう高まり、18年に労働基準法が改正された。ずっと青天井だった残業時間が制限され、違反に罰則が設けられた。1947年の労働基準法の制定以来、約70年ぶりの大きな改正となり、2019年4月から施行された。

改正により、法定労働時間(1日8時間、週40時間)を超えて残業や休日労働をする場合の上限は原則「月45時間、年360時間」になった。週休2日であれば、残業は1日平均2時間余りが上限となる水準だ。臨時的な特別の事情がある場合は「年720時間、月100時間未満」。ただし、月45時間を超えられるのは年間6カ月までに制限された。違反すると、懲役6カ月以下または30万円以下の罰金が科される。

ただ、医師については、「診療治療の求めがあった場合、正当な事由がなければ拒んではならない」という医師法の応召義務があり、地域医療への影響も想定されたことから、5年の猶予期間に特例水準を検討した上で、今年4月のスタートとなった。

「過労死2回分」の特例水準

医師の上限規制の特徴は一般の上限規制よりも格段に緩いA水準、B水準、C水準の3つの特例水準ができたこと。A水準は「年960時間以内」。月ベースに換算すると、上限80時間となる計算だ。

さらにA水準でも地域医療や医師の研鑚に影響が出る場合に対応するため、A水準の2倍近い「年1860時間以内」という異様に高い特例水準を設けた。B水準とC水準だ。

「過労死2回分だよね」と武藤。厚生労働省が作成した過労死防止のガイドブック「しごとより、いのち。」には、長時間労働による過労死ラインは月100~80時間とある。

B、C水準とも都道府県に申請して認められる必要がある。B水準は地域医療を確保するために自院で長時間労働が必要な医師に適用される。もう一つの「連携B水準」は、地方の中核病院などで、当直や外来のアルバイトをしている各地の大学病院の医師らが主な対象で、自院と派遣先病院での労働時間を通算すると、A水準を超える時に適用される。

出典:厚労省HPより

C水準は医師の技能向上にA水準を超す時間外労働が必要な場合で、「C-1水準」は初期研修を受ける研修医や後期研修を受ける専攻医が、「C-2水準」は専攻医を卒業した医師が対象だ。武藤が勤務する衣笠病院はB、Cの特例水準は申請していない。

出典:厚労省HPより

「特例水準を求めるのは基本的に、多忙な大学病院や救急病院、産婦人科、脳神経外科、外科などだ」

特例水準の上限1860時間は月平均では155時間。一般的な残業規制は臨時的で特別な事情であっても、月100時間以上は認められないが、医師の場合、面接指導を受ければ可能となる。

みんな“昭和の頭”から抜け出せず

これらの特例を検討したのは17年夏に立ち上がった有識者らによる厚労省の「医師の働き方改革に関する検討会」。厚労省が医師の長時間労働を議論するための資料として提出したのが、16年の調査結果だった。

全国の医師約10万人と約1万2000の医療機関に調査票を配り、1万5677人と3126施設から回答を得た。その結果はすさまじい。週80時間以上働き、年に換算した残業時間が1920時間を超す医師は10・5%もいた。うち1・8%は年間の残業時間が2880時間(ひと月あたり240時間)を超えていた。

当時の病院勤務医は全国に約19万7000人。厚労省は勤務医の約1割、約2万人が年1920時間超の時間外労働をしていると推測。この上位1割の解消を目指すと強調したが、960時間~1920時間も3割、約6万人に上っていた。

上限時間は最終的に1860時間となったが、その理由について厚労省は医師の働き方改革の専用サイト「いきいき働く医療機関のサポートweb『いきサポ』」で、次のように説明している。

「16年と19年に行われた調査において、約1割の医師が1860時間を超える時間外・休日労働を行っていたことから、まずはその上位1割に該当する医師の労働時間を確実に短縮することとして、この水準が設けられました」

要は突出した1割を是正するため、過労死ラインの2倍の1860時間になったことになる。武藤は「みんな昭和の頭から抜け出せず、一部反対もあったが、結局合意した」と言う。

過労死ラインの医師が2万人から306人に激減

医師の過労死や残業代の未払いは、それより以前から続いていたが、国はずっと本格的な防止策に取り組んでこなかった。

日本医師会(日医)や病院団体、大学医学部なども地域医療を守ることなどを理由に、医師の長時間労働の例外をつくることや罰則を弱めることを求めたほどだった。医療界にも「医師は労働者である」という意識が希薄な面があった。

この調査から6年後の22年8~9月に行った調査では、1860時間を超す時間外労働が今年4月の医師の上限規制のスタート時に見込まれた医師は、大学病院が69人、大学病院以外の勤務医が237人で、約2万人から計306人へ激減した。一気に1・5%に縮小したことになる。

「2万人いた1860時間超えはどうなったんだろうね。どうしてこんなに減ったのか、それが最大の疑問なんだよ」と武藤はいぶかった。そこで厚労省の担当者に聞いてみた。

「16年の調査で、1920時間超えが約1割いたので、それを全部の勤務医にあてはめたのが、この数字(約2万人)じゃないでしょうか。しかし、2万人といっても、その当時何人いたかを把握していない中で、実際にいたかどうかは、また別の問題ですね」

激減した理由については、厚労省が23年に作成した「勤務環境改善に向けた好事例集」に収載された様々な手段が考えられるというので、「いきサポ」にある事例集を見てみた。労働時間短縮の成果を上げた全国20の病院の取り組み例が、詳しく記されていた。

時間外労働を減らせる「宿日直許可」

出勤・退勤、休憩や時間外労働などを正確に記録する「勤怠管理」、多岐に及ぶ医師の業務の一部を看護師や事務作業補助者らが代行する「タスクシフト」、複数医師のグループ診療、交替制勤務、フレックスタイム、カンファレンスの時間短縮、特別休暇など、いろいろな方法が紹介されていた。

中でもすぐに時間外労働を減らすことができるのが労基署から取得する「宿日直許可」だ。通常の夜勤や休日勤務とは異なり、本来は軽度や短時間の業務に限られる。

申請を受けた労基署が、過去の業務内容や医師への聞き取りなどで審査する。許可されれば、宿直や土日の日直をしても労働時間には含まれない。

本来の宿日直はいわゆる「寝当直」なので、常勤の医師には賃金の1日平均額の3分の1以上が支払われる。急患の診療など通常業務が生じた場合は労働時間となり、医療機関はその分の賃金を払わなければならない。アルバイトの医師には日当が払われる。救急病院なら1回十数万円が相場だ。

「いきサポ」には宿日直業務の例として「軽度の処置を含む問診などの診察や看護師らへの指示・確認」や「外来患者の来院が通常予定されない休日・夜間に、少数の軽症の外来患者やかかりつけ患者に対応する」とある。

これらも診療行為にほかならないのだから労働とみなされるべきだ。宿日直は「十分睡眠が取りうること」も許可の基準となっているが、急患などで一度起こされ、またすぐに眠れるかは個人差があるだろう。

6倍に跳ね上がった「宿日直許可」

「宿日直の許可基準は『少数の軽症の外来患者』や『十分睡眠を取りうる』という表現にとどまり、具体的な数値が示されていない」

武藤はそう指摘し、宿日直が拡大解釈され、残業が見えなくなることを懸念する。4月の働き方改革の開始前、この宿日直の駆け込み取得が目立った。武藤は言う。

「大学病院から医師を派遣されている地域の病院が宿日直許可を取らなかったら、派遣医の宿日直が労働時間にカウントされて、連携B水準の上限を超えるケースが出てくる。医師を引き上げられては診療体制の縮小につながりかねないので、宿日直許可を取る病院が急増している」

宿日直許可を取得した医療機関は20年が144件、21年は233件だったが、22年は1369件と前年の6倍近くにはね上がった。厚労省や病院団体も1860時間超えを解消するため、宿日直許可を取るように病院に推奨してきた。

「大学病院の医師がいろいろな病院の当直・日直を埋めに行くことで、日本の医療システムは成り立っている。大学病院の医師は市中病院の医師や開業医よりも収入が少ないので、アルバイトをしないとやっていけない」とある大学病院教授のベテラン医師。自身も2カ所でアルバイトをする。

働き方改革について「ウチは、タスクシフトは進んでいますよ。医者がやる仕事、医者がやらなくてもいい仕事を分けて。それをして、やっとセブン-イレブン(朝7時~夜11時)くらいにはなっていますけど」と苦笑した。

「自己研鑚」で労働時間圧縮

全国医師ユニオン代表で医師の植山直人氏

もう一つ、時間外労働の削減で即効性があるのが、自己研鑚と労働時間の「切り分け」だ。勤務終了後に院内に残り、症例や外科手術の方法などを研究する行為が、「労働なのか自己研鑚なのか」の切り分けを明確にし、「研鑚なのに労働として残業申請される」ケースを減らせるというものだが、これも見かけの時間外労働を減らすために拡大解釈される恐れがある。

神戸市の甲南医療センターの勤務医だった高島晨伍さん(当時26)が過労自死したのは22年5月。労災認定をした兵庫・西宮労基署は自死直前1カ月の時間外労働を207時間50分で、極度の長時間労働と認定した。甲南医療センターは、学会発表準備のための自己研鑚もあり、時間外労働の全てが労働時間ではないと主張しているという。

遺族らの会見に同席した全国医師ユニオン代表で医師の植山直人に会った。植山は高島さんの死について「自己研鑚をする時間すらなかったのではないか。それを苦にして自死につながった可能性がある」と話した。

宿直だけで過労死ライン超えの医師が1割

見かけ上の宿日直による労働時間のブラックボックス化を浮き彫りにしたのが、22年6月~7月に行われた「勤務医労働実態調査2022」だ。調査は17年以来5年ぶり3回目。全国医師ユニオンを中心とした実行委員会が、今回は日経メディカルの医師会員約20万人に依頼し、約2割の大学病院の医師を含む7558人からwebで回答を得た。

出典:「勤務医労働実態調査2022」

1カ月の休みは「0日」が5・1%、「1日」4・4%、「2日」7・2%と、前回調査よりやや改善したものの、深刻な状態が続いている。月の宿直回数は4回が12・1%、5回4・4%、6回以上9・3%。実行委は「1回の宿直が15時間とすれば6回で90時間となり、宿直だけで過労死ラインを超える医師が約1割いる」と指摘する。

同ユニオン代表の植山は「休日とか当直とか、基本中の基本なのに、まず労働基準法が守られていない」と言う。

出典:「勤務医労働実態調査2022」

宿直の内容は「ほとんど通常業務を行わない」は19・9%。これが宿日直に当たるため、「宿日直許可を取れる病院は2割に過ぎない」(実行委)。逆に「業務量は日勤帯と変わらない」は25・6%だった。

宿直明けの勤務は通常勤務が65・7%となっており、30数時間の連続労働が常態化している。4月から医師の連続労働には28時間の上限が設けられたため、これまでのような超長時間労働は許されない。

出典:「勤務医労働実態調査2022」

「違法な状態を合法化するようなもの」

「働き方改革は、医師の健康確保が目的だが、医師自身が『健康である』と答えた人は5割に満たなかった。今回初めて行った質問で、死や自殺について考える医師が6・9%に上り、20歳代では14・0%が日常的に死や自殺について考えていたのは衝撃だった。日本の医療は若い研修医や専攻医に負担をかけて使い潰している」

植山はそう激しく批判した。

「真の意味での働き方改革になっていない。違法な状態を合法化するようなものだ。国は35年にB水準をなくすとしているが、そのためには医師の絶対数が不足している。医師を増やす必要がある」

医師の働き方改革は、コロナ禍でその脆弱ぶりが露呈した地域医療提供体制の改革と、地域や診療科ごとの医師偏在の解消とセットで進める必要がある。どれか一つでも進まなければ、他の施策も進まない。そもそも他の産業と比べると、上限年960時間や1860時間という水準自体が異常である。だが現状は、医療提供体制や医師偏在の問題は改善されないまま、医師の働き方改革だけがスタートした。改革の名の下に見かけの数字だけを取り繕い、医師の命や健康を脅かす長時間労働がブラックボックス化する恐れがある。(文中敬称略)

著者プロフィール

杉谷剛(すぎたに ごう)

東京新聞編集委員

   

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