源氏物語を「楽しみ尽くす」方法/日記から読み解く 源氏物語成立の核心/半世紀の愛好家・柳辰哉

2024年5月号 LIFE [物語に込めた人生観]
by 柳 辰哉(半世紀の愛好家)

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連載の最終回は、紫式部が源氏物語を書いた意図と、物語に込めた人生観について考えてみます。

天皇と后のために書いた可能性

「紫式部図」伝谷文晁筆出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp) 一部加工

源氏物語が書かれた経緯(いきさつ)を直接証する記録は残っていませんが、物語執筆と重なる時期に作者が記した『紫式部日記』の内容や歴史的事実から、時の最高権力者・藤原道長が密接に関わったことは間違いありません。

『紫式部日記』には、道長の娘で一条天皇の中宮の彰子(しょうし)に女房として仕えた紫式部が、彰子の出産をはじめとして寛弘五(一〇〇八)年から七(一〇一〇)年の宮中のできごとを記しています。いわば業務として上司の道長の指示で公的な記録を残した日記だと見られます。ほかに同僚女房などへの論評や自らの鬱屈した思いといった私的な内容もあり、二面性があるのが特徴です。

日記には、源氏物語に関連する以下のことが書かれています。(角川ソフィア文庫・山本淳子氏訳注『紫式部日記』を参考にしました)   

①寛弘五年十一月、紫式部は当代きっての文化人・藤原公任(きんとう)から「この辺りに若紫(わかむらさき)さんはお控えかな」と声をかけられたが「光源氏に似たような方もここにはお見えでないのに、まして私が紫の上だなんてとんでもない」と考えて答えなかった。

②同じころ、中宮彰子の前で物語の清書や製本のための作業が行われ、道長からは上質の紙や筆、墨、硯が提供された。(源氏物語のことかどうかは記さず)

③一条天皇が源氏物語を女房に朗読させて聞きながら、紫式部の漢文の素養を褒めた。(時期不明)

一方、歴史的な事実として道長は、娘の彰子に一条天皇との皇子を産ませて外戚の地位を固めるため、文名の高かった紫式部を彰子の後宮のレベル向上の切り札として女房に起用したと見られています。道長の目論見通りに彰子は第一子(のちの後一条天皇)を出産したことが、紫式部日記のトピックになっています。

これらの日記と史実から、紫式部が宮中に出仕しながら源氏物語を書いた主たる目的は、第一の読者として一条天皇と彰子に物語を楽しんでもらうことであり、執筆は公的・政治的な使命だったことが窺えます。源氏物語は帖ごとに書き上がり、一条天皇に彰子のもとに来てもらって女房が語るのを聞いてもらうことにより、訪れる機会を増やしたのではないかという見方もあります。

道長と式部とのこうした相互依存関係について歴史学者の倉本一宏氏は「紫式部は道長の援助と後援がなければ『源氏物語』も『紫式部日記』も書けなかったのであるし、道長は紫式部の『源氏物語』執筆がなければ一条天皇を中宮彰子の許に引き留められなかったのである。道長家の栄華も、紫式部と『源氏物語』の賜物であると言えよう」と総括しています。(講談社現代新書『紫式部と藤原道長』)

一条天皇と彰子のために書かれたという視点から源氏物語の内容を考えてみますと、物語のいくつかの重要な謎が解けるように思います。

たとえば、日本の文学史上例のない過激なストーリー、つまり天皇の后である藤壺の宮が天皇の子である光源氏と密通し、生まれた男の子がのちに天皇として即位するという筋書きは、大胆なフィクションとして一条天皇を驚かせ、物語の続きに目が離せなくなったのではないでしょうか。また、物語の設定を「天皇親政」が行われた五十年~百年前の時代に遡らせ、藤原氏全盛期に皇室出身の源氏の優越を描いたことは、一条天皇を満足させた可能性があります。しかも物語冒頭で、桐壺帝が寵愛していた更衣を亡くして悲しむくだりは、最愛の中宮定子(ていし)を亡くした一条天皇の気持ちを慰める目的があったのではないかと、研究者の清水婦久子氏は記しています。(清水氏の角川選書『源氏物語の真相』)

さらに、主人公の源氏の様々な恋愛体験と挫折、あるいは明石の君のように身分の低い女性の娘が実家の長い苦節を経て后になるといったできごとは、人生や社会の実情、とりわけ男女の愛の諸相を若い一条天皇や彰子に教える効果があったと考えられます。物語に白楽天などの漢詩を数多く引用したことは、彰子が漢籍を学ぶきっかけになり、漢籍好きだったとされる一条天皇との会話を豊かなものにしたかもしれません。

道長との男女の関係はあったのか

ヒクイナ 戸を叩くような鳴き声から古歌で使われた「水鶏」はこの種と見られる。横浜市で撮影

源氏物語をめぐる協力関係に加えて、紫式部と道長の間に男女の関係があったのか否かについては識者の見方が対立しています。

国語学者の大野晋(すすむ)氏は、紫式部日記の内容を時系列で分析した結果、ある時期を境に明るく華やかな道長家への賛美から暗い心情に一変していると結論づけ、その原因は式部が道長との幸せな男女関係を失ったためではないかと推論しています(岩波現代文庫『源氏物語』)。また、作家の瀬戸内寂聴氏は紫式部日記に書かれた以下の和歌のやりとりに注目し、男女の関係があったと推定しています。そのやりとりとは、夜に式部が休んでいた部屋の戸をたたく人がいたが、おそろしさに声も出さずに夜を明かした翌朝、

「夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口に叩きわびつる」

〔戸を叩く音と似た鳴き声で水鶏はコンコン鳴くけれど、私はそれ以上に泣きながら、あなたの戸口を一晩中たたきあぐねていたのですよ。〕という和歌を贈られたのに対し、

「ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし」

〔この戸一つを、ただ事ではないというほどの叩き方でしたけれど、本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、戸を開けたらどんなに後悔することになっていたやら。〕と返歌したというものでした。(原文・訳は山本氏前掲書)

瀬戸内氏は一つ目の和歌を道長の作と見て「道長のような男が一度や二度、戸を開けてもらえなかったからといって諦めるとは思えません。おそらく、二日目か三日目かには紫式部は道長を部屋に入れたことでしょう」と推測しています。(集英社『寂聴源氏塾』)

これらに対し、国文学研究者の今井源衛(げんえ)氏は、道長は当時既に左大臣で孫がいる年齢であり、夜這いをして恨みがましい和歌を贈るという無様な行為をするとは考えられない、などの理由で男女関係は無かったと推定しています。倉本一宏氏は「歴史学者から見ると笑止千万な議論」(倉本氏前掲書)と断じ、与謝野晶子氏も「取るに足らぬ無稽の説」(「紫式部新考」昭和三年初出)と切り捨てています。

源氏物語を読んで私は、紫式部が女性だけでなく男の登場人物の恋愛心理をとてもリアルに書けていることに驚嘆しました。男女関係があったと見る瀬戸内氏は「式部は寝物語に道長の経験談を聞いて、物語に活かしたのではないか」と想像しています。逆に関係が無かったのが事実なら、紫式部は女友達あるいは自分の夫や弟から、男性心理について広く取材したのかもしれません。

厭世観から解放された物語執筆への熱中

「紫式部日記絵巻断簡」鎌倉時代(重要文化財)出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

紫式部日記を読んで強く印象を受けたのは、后の出産や華やかな宮中行事を綴る一方で、作者が再三、自分の人生の憂いを記していることです。たとえば、彰子の出産のあと一条天皇を迎える準備の日々に、式部は池で遊ぶ水鳥を見て次の述懐を和歌にしています。

【水鳥を水の上(うへ)とやよそに見むわれも浮きたる世をすぐしつつ】

〔のんきそうな水鳥を、水の上だけのよそ事などと見るものか。私もまた人から見れば、豪華な職場で浮かれ、地に足のつかない生活をしているように見えるのだから。でも本当のところは水鳥の身の上だって大変なはずだ。私もそう、憂いばかりの人生を過ごしているのだ。〕(原文・訳は山本氏前掲書)

「源氏物語絵色紙帖」絵土佐光吉筆 蛍(重要文化財)出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

式部は、かつて夫を喪(うしな)った日々に、物語を書いて友人と共有することで寂しさを紛らわしたと日記に記していますが、出仕後も源氏物語を書き進める営みによって厭わしい現実社会を遁れ、生きる力としたのではないでしょうか。彼女にとって物語の執筆は、人生前半の経験や少女時代から親しんだ漢籍・和歌の蓄積を生かし、社会や人間への鋭い観察眼を最大限に発揮できるという点で、やりがいの大きな仕事になったと思います。しかも、後宮に出仕したことで、貴族社会の人間関係や政治的な争いについて、単なる噂話ではなく生の情報を知る立場になり、物語のリアリティーを高めることができたと推測します。

「25 蛍」の帖に、光源氏が養女の玉鬘に対し「日本書紀のような正式な歴史書よりも物語の方にこの世のできごとがくわしく書かれているのだ」という「物語観」を語る場面があります。源氏のこの発言は、物語によって人間の真実を伝えられるという紫式部の自信の表れとして読みたいと思います。

精魂込めて作り上げた源氏物語が、千年の時を越えてこれほど多くの人を感動させるとは、当時思いもよらなかったでしょうし、作者冥利に尽きると思います。

彼女が最後に伝えたかったこと

紫式部像 宇治川畔で筆者撮影

源氏物語の執筆には長編だけにかなりの年月を費やし、物語に作者として込めたメッセージも変化していった印象を受けます。特に、主人公の光源氏が老境にさしかかって次々と思うに任せないできごとに見舞われ、苦悩する第二部は、次第に暗い色調が増します。さらに源氏死後の第三部の「宇治十帖」では、登場人物の誰一人幸せになれず、来世に救いを求める人生観が色濃くなります。物語が終わりに向かうにつれてめだつのは、女性の生きづらさと苦しみ、そして癒しがたい男女の心のすれ違いです。

たとえば、第二部終盤の「39 夕霧」の帖に、源氏が愛した紫の上が死の前年に述懐した心の内が記されています。角田光代氏の訳です。

【女ほど、身の振り方が窮屈でかわいそうなものはない。うつくしいものに心動かされたり、折々の風雅を味わったり、そういうことを何もわからないかのように引きこもっておとなしくしていたら、いったいどうやってこの世に生きるよろこびを味わい、無常の世のむなしさを忘れたりできるというのだろう。】(角田訳「夕霧」より。河出書房新社・日本文学全集『源氏物語 中』) 

女性ならではの不幸の自覚や、恋愛・結婚への絶望感は、宇治十帖に登場する姉妹、とりわけ薫の愛を受け入れずに早世する大君(おおいぎみ)に受け継がれているように思います。

そして最後のヒロインとして出自が低く東国育ちの浮舟が登場すると、薫と匂宮が浮舟を対等の女性として愛するのではなく一時の「慰みもの」のように蔑視する意識が繰り返し記されます。加えて、終盤の「52 蜻蛉」には変態的とも言える行動まで描かれています。愛した浮舟を失ってさほど経たないときに薫は、皇女の女一の宮が氷を手に持って猛暑をしのぐ姿を垣間見て恋情を抱いた後、自宅で自分の妻に同じ色の着物を着せて氷で同じ仕草をさせ、密かに楽しむのです。

こうした筆遣いは、主人公の理想的な面を描いた物語前半から大きく変化し、暗転しています。時代背景として、社会が衰えて「末法の世」に近づくという思想や、来世に望みをかける浄土信仰の影響もあったのかもしれませんが、全編が紫式部の作であることを前提に考えますと、歳を重ねた彼女自身がたどりついた人生観が表れている気がします。浮舟が薫と会うのを拒絶するという物語の終わり方は、男性との決別による新たな生き方を読者に暗示したようにも読めます。

瀬戸内氏は、浮舟の出家の儀式が詳細に描かれていることなどを根拠に、宇治十帖は作者自身が出家した後に書いたと見ています。出家の有無は確認できませんが、私は、式部が宇治十帖を書いたときには、道長の指示で天皇と后のために創作するという使命が既に終わっていて、自分の人生観をより直截に打ち出して筆を擱(お)いたのではないかという感じを抱いています。

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源氏物語の鑑賞や当時の歴史を知るための書籍とWEBサイトを紹介します。

▼『平安大事典』(朝日新聞出版) 平安時代の生活・文化・行事・宗教などがビジュアルな資料と共に理解できます。

▼大和書房『源氏物語事典』 源氏物語の登場人物やできごと、鑑賞の要語などが網羅され、読み物としても楽しめます。

▼「摂関期古記録データベース」(https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/) 平安中期の重要史料である藤原実資の『小右記』、道長の『御堂関白記』など多数の原文がデータベース化され、人物名などで検索できます。

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この度の執筆に際して源氏物語を読み返したことで、多くの新しい発見があっただけでなく自分の読み方も変わり、広大な森のような奥深い文学だと再認識しました。読者の皆様もご自身の源氏物語に出会い、長く楽しむきっかけにしていただけるなら幸いです。

(連載を通じ法政大学の加藤昌嘉教授・東洋大学の河地修名誉教授に多くの示唆や助言をいただきました。)

著者プロフィール

柳 辰哉

半世紀の愛好家

1957年生まれ、東大法学部卒。NHKで記者として主に裁判取材を担当、社会部長・首都圏センター長・総務局長を経て退職。国際医療福祉大学に転職し医学部新設に携わったほかキャンパス・附属病院の事務責任者を務めた。現職はフリー校正者。源氏物語・和歌など古典文学を50年間愛好。

   

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