福島原発「消えぬ風評」という悪魔/by田中俊一(原子力規制委員会初代委員長)

食品流通に関する国の過剰規制と福島県による自主的な上乗せ規制こそが、消えぬ風評という悪魔をはびこらせる元凶。

2023年8月号 POLITICS [消えぬ風評]
by 田中俊一(原子力規制委員会初代委員長)

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韓国の原発処理水視察団

2017年9月に原子力規制委員会(NRA)の委員長を退任後、福島県飯舘村に移住し、避難地域の住民と接しながら6年半が過ぎた。この間、忸怩たる思いが募るのは、放射線や放射能についての風評によって、復興が足踏みしたままであることだ。

最近、トリチウム処理水の風評を巡って韓国視察団の受け入れという政治判断がなされたが、福島県民にとっては違和感がある。トリチウム処理水については、13年9月にNRA委員長として官邸(故安倍首相、茂木経済産業大臣=当時)を訪ね、処理水は告示濃度以下にして希釈排水すれば安全上の問題はなく、それ以外に処分方法はないので、福島県の漁業者と向き合っていただきたいとお願いしたことを思い出す。首相は前向きに受け止めてくれたが、経産省は「トリチウム水タスクフォース」を発足させ、延々と議論を重ねてきた。結論は、NRAが提案した告示濃度以下にした処理水の希釈排水になったが、今なお国内外に大きな混乱を招いていることは無念である。

福島県は事故直後から放射線や放射能に関する誤った情報により、様々な風評被害を受けてきた。始まりは発災した原発の近隣から避難した住民に対する差別である。子供たちは避難先の学校で「放射能が伝染するからそばに寄るな」「一緒に遊ぶと放射能がうつるからサッカーには入れない」といった差別を受けたが、こうした人間性を否定する風評被害は殆ど認識されていない。温泉に行こうとしても「原発事故の避難者の宿泊はお断り」と云われるなど、全く根拠のない噂話による人間性にも悖る風評被害は枚挙に暇がなく、福島県民の心に深い傷跡を残した。さすがに事故から12年が過ぎ、こうした風評はあまり聞かれなくなったが、農水産物に対する風評被害は依然として続いている。その最たるものがトリチウム処理水の海洋処分を巡る騒ぎである。

「至福の味」を奪われた福島県民

農水産物については、事故直後から徹底した放射能検査が行われ、現在では基準を超える食品はほぼ皆無である(表参照)。しかし、未だに風評被害が払拭される気配が見られないのは、食品流通に関する国の過剰規制と福島県による自主的な上乗せ規制が原因である。

現在、国内のセシウム(Cs)137の食品流通基準は1キロ当たり100ベクレル。これは国際的な基準の10分の1以下である。ここに至る経緯は2011年10月に遡る。当時の小宮山洋子厚生労働大臣から、薬事・食品衛生審議会長宛に、放射性セシウムについて食品から許容することのできる内部被ばく線量を5ミリシーベルトから1ミリシーベルトに引き下げたいとの諮問があった。これを受けて同審議会食品衛生分科会放射性物質対策部会(専門部会)は「1キロ当たり500ベクレルの現行基準でも、食品による実際の被ばく線量は、年間0・1ミリシーベルト程度であり、食品からの実際の被ばく線量は十分に低いレベルにある」とし、年間1ミリシーベルトより十分小さいと評価していながらも、基準を据え置くのではなく、「北海道から九州まで国産の食品は100%放射能に汚染されているとする」という常軌を逸した仮定に基づきCs137の摂取基準を1キロ当たり100ベクレルに強引に下げるという「蛮行」を行った。

小宮山厚労相を忖度した過剰規制に、文部科学省の放射線審議会は「厳しすぎる」と反発したが、厚労省が押し切る形となった。多くのマスコミが厚労省の肩を持つ中、読売新聞は「新規制値の導入での被ばく線量の低下は0・008ミリシーベルトとわずかで消費者にメリットはない」「生産地では検査の負担が増し、地域経済に大打撃を受ける」などと、新規制の再考を求めるキャンペーンを張ったが、衆寡敵せずに終わった。

この新規制を、農水省は杓子定規に適用し、様々な農水産物の作付け制限や出荷規制をしてきた。一例を挙げれば、EUや米国は摂取量が少ない山菜・きのこについて一般食品の10倍、つまり1キロ当たり1万ベクレルと定めたが、農水省は山菜・きのこも一般食品と同じ100ベクレルという、国際基準の100分の1という超過剰な規制をかけている。

原発事故の被災地となった阿武隈山系は山菜が豊かであり、春にはフキノトウにはじまり、ワラビ、タラの芽、コシアブラ、秋にはイノハナ(香茸)、シメジなど、地元の住民は四季折々に山の恵みを享受してきた。イノハナご飯は、マツタケご飯より甘露だというのに――。震災後は一切の山菜摂取が禁じられ、至福の味覚を奪われている。

福島県は即刻自主規制を止めるべき

遅ればせながら自民党東日本大震災復興加速化本部(座長=根本匠衆院議員)は、「食品等の出荷制限の合理的なあり方検討プロジェクトチーム」を発足させ、2021年3月に「食品等の出荷制限の合理的なあり方に関する提言」を公表した。この中で「福島原発事故後、食品中の放射性物質から国民の健康を守る観点から、基準値の設定およびそれに基づく出荷制限等が行われてきたが、実際の食品からの放射線影響が想定以上に抑えられている一方で、生業をはじめとした地域への影響が甚大である」と指摘し、「基準値設定における仮定条件および数値自体の妥当性・合理性を薬事・食品衛生審議会に諮問して検証し、基準値の国際的な考え方を踏まえ、科学的・合理的な観点から必要な対応を検討すべき」などと、14の提言を行った。しかし、極めて遺憾なことに、今に至るまで厚労省には出荷制限等を見直す気配すらない。

更に厄介な問題は、福島県が県産品の安全をアピールし風評被害を克服する対策として、1キロ当たり50ベクレル(国の規制値の二分の1)の自主基準を定め、農生産物の出荷制限をしてきたことだ。この上乗せ規制の顕著な弊害は水産物である。例えば23年2月7日に福島県沖から水揚げされたスズキからCs137が1キロ当たり85・5ベクレルの放射能が検出された。これは国の食品基準(100ベクレル)をクリアしていたが、県の自主基準を超えているため、県漁連は県の指導に従って県内で水揚げされた全てのスズキを回収し、「50ベクレル以下」が一定期間続くようになるまで出荷を自粛している。試算すると、この85・5ベクレルのスズキを食べ続けて年間1ミリシーベルトの内部被ばくをするには、1年間に約1トンのスズキを食べる必要がある。県の上乗せ規制が如何に愚かで不合理か、論を俟たないであろう。

福島県が厳しく規制しているから安心と考える国民は殆ど皆無である。逆に「未だに規制をかけているのは、福島の農水産物が今なお放射能に汚染されていることの証拠」という、世の中の誤った風評を招く原因になっている。風評は「安全性の担保では決して解決しない」という現実と向き合い、即刻自主規制を止めるべきである。福島県が不合理な上乗せ規制を続ける限り、農水産物に対する風評被害は収まらず、いつまでたっても復興が進まない。

事故直後に「放射線を被ばくすると少量でも、がんなどの健康影響が起こる」とか、「将来生まれてくる自分の子や孫への健康影響がある」といった悪質なデマが流布され、福島県民だけでなく、全国民の不安と恐怖を煽った。いったん植え付けられた偏見を払拭するのは容易でなく、福島県民はもとより、多くの日本人の心にも放射線や放射能に対する不安と恐怖がわだかまり、それが非科学的な風評につながっている。

安全規制を揺るがす「危険な賭け」

こうした風評は、国の過剰規制を根拠に不安を掻き立て流布される場合が多いが、そもそも科学的根拠がないことは、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告からも明らかである。UNSCEARは福島原発事故から10年間の調査結果に基づき2020年に、福島原発事故の敷地内外で被ばくした人々への影響を、次のように評価している。

①対象としたいずれの年齢層においても甲状腺がんの発生は見られそうにない。

②公衆の間で放射線被ばくが関係している先天性異常、死産、早産が過剰に発生したという確かなエビデンス(証拠)はない。

③従事者に関しても、白血病と全固形がん(甲状腺がんを含む)の発生の増加が見られることはありそうにない。

しかるに「風評」を克服するには、過剰な食品流通規制の見直しこそが急務である。まず、目下の国内の食品流通基準を国際的なレベルに合わせれば、福島県の農水産物は全く規制する必要がなくなる。規制を無くして福島県の美味しい果物、野菜などの農産物、常磐モノと呼ばれる海産物を安心して日々食し、自信をもって販売する姿勢を見せれば、風評は早晩消えていくものである。非科学的な国の過剰規制こそが悪質なデマの根源であり、「風評という悪魔」をはびこらせる原因になっている。

より喫緊の課題は、福島県が自ら自主規制をやめることだ。そのうえで「行政の無謬性」に縛られた国が基準改訂に動けないのなら、復興を願う被災自治体の総意として福島県が非合理な過剰規制の改訂を、不退転の覚悟で国に要求することである。

日本政府は、韓国での風評被害を払拭するためとの理由で、韓国視察団を受け入れたが、国内での風評を打ち消さない限り、外国での風評をなくすことはできない。

最近、連立与党トップの発言に対し、日商会頭が科学的根拠のない風評を助長するものとして厳しく批判しているが、福島の海は全国でも有数の美味しい魚が育つ美しい海であることを付け加えておく。

最後に、汚染水を含めて福島第一原発の廃炉に関する安全確保に責任と権限を有するNRAを差し置いて韓国視察団に汚染水の処理・処分の安全性の判断を委ねたことは、NRAに対する国民の信頼を損ね、我が国の安全規制の根幹を揺るがす極めて「危険な賭け」であることを付記して置く。

著者プロフィール
田中俊一

田中俊一

原子力規制委員会初代委員長

1945年福島県生まれ。67年、東北大工学部卒、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)入所。日本原子力学会長、内閣府原子力委員会委員長代理を歴任。2012年9月、原子力規制委員会の発足に伴い、初代の委員長に就任。17年9月に任期を終え、現在は、福島県飯舘村で除染のアドバイザーなどとして活動。

   

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