特別寄稿:へっぽこ研修医の「浜通り」奮闘記 by 尾崎章彦

3.11の救急外来で「どけ!」と押しのけられた私が、いわき市で乳腺外科を立ち上げた理由。

2021年3月号 DEEP [大震災「10年」]
by 尾崎章彦(乳腺外科医 )

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大平広道医師(左端)と筆者(右端、南相馬市立総合病院内で)

「マンモグラフィーを確認しましたけど、特に問題ありませんね。また1年後に受診してください」――。

2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原発事故(以下、震災)からもうすぐ10年が経つ。筆者は、翌12年に福島県に入り、現在は県沿岸部(以下、浜通り)の南に位置するいわき市で乳癌診療に従事している。縁もゆかりもなかったこの地で診療を行っているのは震災があったからだ。

あの日(3.11)、筆者は千葉県旭市において初期研修医1年目、麻酔科で研修を行っていた。ちょうど手術前の患者さんの部屋でお話をお伺いしていた時に、大きな揺れを感じた。手術室に急いで戻ると、上級医や同僚が、患者さんを急いで安全な場所に避難させているところであった。一緒になって患者さんの避難を手伝っていると、津波で流された方々が救急外来に運ばれてくるという情報が聞こえてきた。

急いで救急外来に向かうと、次々と患者さんが運ばれてきた。手伝おうとするものの、戦場のような混乱の中で体が動かず、挙げ句の果てには「どけ!」と先輩ドクターから脇に押しのけられる有り様だった。当時の記憶は断片的だが、とにかく役に立たなかったという無力感だけは強く覚えている。救急外来を後にした時はすっかり夜が更けていた。同期の部屋に集まってテレビをつけると、東北の沿岸部が津波で押し流される様が繰り返し放送されていた。

千葉県旭市は県内で唯一10人以上の方々が亡くなった自治体であった。東北の方々が経験した困難とは比べものにならないだろうが、当時の私には十分衝撃的な出来事であった。

片っ端から乳癌のカルテを見返す

翌12年、初期研修を終えると、私は志願して福島県に移った。震災後の状況に関心があったとともに、何かしらお手伝いできることがあるのではと考えたからだ。とは言えまだまだ駆け出しの身である。12年4月から2年半、会津若松市で外科のトレーニングに従事した後、14年秋から、大学の先輩である坪倉正治医師(39)を頼って、原発から北に約23㎞に位置する南相馬市に移った。坪倉医師は震災翌月から南相馬市に入り、住民の内部被ばく調査を続けていた。その活動をSNS等で目にして、関心を持ったのだった。

南相馬市ではそれまで通り、外科医として働いたが、坪倉医師の指導のもと、地域住民の健康調査にも関わった。自分の人生にとって非常に大きかったのが、外科の上司であった大平広道医師(58)との出会いである。大平医師は乳癌を専門とする外科医で、震災前から継続して現地の乳癌患者の診療に従事しており、多くの住民に信頼されていた。大平医師の下で働く中で、乳癌診療の専門性の高さや面白さに目覚め、乳癌を専門とすることに決めた。乳癌の管理を勉強する際に勧められたのが、実際の症例のカルテを見返すことだ。そこで、過去の乳癌患者のカルテ(当時は紙カルテだった)を引っ張り出して、片っ端から見返していった。その際に目を引いたのが、震災後、しこりなどの症状を以前から自覚しているにもかかわらず、1年以上経って初めて医療機関を受診するような乳癌患者が多くいたことである。

実際、外来や病棟で癌患者と話していても、同様の経験をしている患者が少なくなかった。例えば、ある50歳代の乳癌患者は、症状に気づいてから1年以上医療機関を受診しなかった。理由を伺うと「家族や友人はみんな震災後に避難しました。誰にも言えずに怖くて1年以上放っておいたら、胸のしこりがどんどん大きくなってしまったんです」と答えてくれた。震災後の生活環境の変化が彼女の受診の遅れにつながったことは、容易に想像できた。奇しくも、震災から3年以上が経過した被災地においては、坪倉医師らの尽力もあり、放射能そのものによる健康被害は限定的であることが明らかになりつつあった。代わりに大きな関心事となっていたのが、震災後の環境変化による健康被害である。震災後、南相馬市では、若年者を中心に人口流出が続き地域コミュニティーが弱体化した。その変化は、医療や介護を含めた暮らしの様々な場面に、影を落としていた。そして私が経験した事象も、その一例であると考えられた。

震災後は受診が遅れる乳癌患者

そこで、震災前後10年以上の期間にわたって、南相馬市の主な医療機関を受診した乳癌患者のカルテを調査した。すると、震災前、症状を自覚した後に3カ月以上受診が遅れるような乳癌患者は18%程度であったのに、震災後は30%程度まで上昇していた。また、1年以上受診が遅れた患者は震災前わずか4%程度であったのが震災後に19%まで上昇していた。受診が遅れた方々においては、発見時にすでに進行した乳癌である方も多く見受けられた。そして、不幸にも、このような変化は震災後5年経過した時点でも継続していた。一連の現象は医療へのアクセスが、震災直後一時的に悪化したことでは説明できないと考えられた。むしろ、前述した震災後の環境変化が大きな影響を及ぼしていると推察された。つまり、乳癌患者が何かしらの症状に気づいた際、家族や友人に相談して、そのサポートを得ながら診療を受ける、そんな当たり前の共助の構造が失われてしまったのである。

また、このように、医療機関受診前の患者にフォーカスした調査を実施する中で、別の疑問も浮かんできた。それは、医療期間受診後に、これらの乳癌患者が適切に治療を受けることができていたのだろうか、という問題である。そこで、この点についても調査を行った。まず、彼女らが初めて医療機関を受診してから治療が開始されるまでの期間を震災前後で比較した。すると、驚いたことに、震災後と震災前を比較して、医療機関受診後に治療のタイミングが遅れるような乳癌患者が増えることはなかった。加えて、さらに調査を進めたところ、一度治療を受けただけではなく、ほとんどの方が、その後も継続して医療機関を受診することができていた。これらの結果には当初驚いたが、よく考えれば納得できた。というのも、南相馬市においては、震災直後の数カ月間を除いて、乳癌の診療体制が維持されたからである。その中心として、大平医師は震災後も、一貫して地域に根を張り、乳癌患者の診療を担ってきた。現地の状況をよく理解する医療者が、震災後も現地を離れず医療を提供し続けることの重要性が、窺い知れる結果であった。

一連の調査から明らかとなったのは、家族や友人からのサポートが得難く、どれほど医療機関への受診が遅れるような乳癌患者であっても、医療機関受診後に、医療者からサポートを受けられる体制が確立されれば、多くの場合、治療を継続できるという点である。そのためには、無論、診療を受けられる体制を医療者側で確保することが重要である。そして、この教訓を、自分の立場に落とし込んで生かすのであれば、筆者自身が、一刻も早く、乳癌診療について、一人前になることが重要であると思われた。そこで17年には、日本で最も多く乳癌の手術を実施しているがん研究会有明病院の門を叩き、9カ月間にわたって乳癌診療のトレーニングを受けた。18年1月に浜通りに戻り、その秋から、縁があり、いわき市で乳腺外科を立ち上げ、今に至っている。

医師不足に悩まされるいわき市

浜通り地方は北の相双地区と南のいわき市に分かれる。相双地方の乳癌診療は大平医師が支えていた。一方で、いわき市は約34万人と東北で仙台市に次ぐ人口を誇っていたが、乳癌を専門とする医師が数名しかいないことが問題となっていた。いわき市で乳癌診療に携わることで、浜通り地方のより多くの方々に乳癌治療へのアクセスを提供できるかもしれない。そう考えたのがいわき市で働き始めた理由である。

南相馬市での教訓を胸に、一貫して、飛び込みの受診も断らないことをモットーに、乳癌の診療に当たってきた。いわき市の住民や医療者にも少しすつ認知・信頼されてきたのか、毎年治療を任せてくださる患者の数は増えてきている。現在週4回いわき市で、週1回は南相馬市での診療に従事する日々だ。

このように、地域の乳腺外科医として働く筆者であるが、乳癌診療以外にも、現在力を入れていることがある。それは、若手医師のリクルートである。

その重要性に気づくきっかけは、16年末から17年初めにかけて筆者らが関わった福島県広野町の高野病院の存続問題である。高野病院はいわき市の北隣の広野町に位置する民間病院であり、震災後,広野町周辺地域で唯一入院診療が可能な医療機関として、地域の復興を支えてきた。その中で81歳というご高齢にもかかわらず、唯一の常勤医として診療を行ってきたのが高野英男院長だった。震災直後には重篤な患者さんを守るために、避難を固辞し、病院に留まって患者のケアを継続するような責任感の強い方だった。しかし、16年12月30日に高野院長は自宅での火事で逝去され、当院は存続の危機に立たされた。高野院長が亡くなった当時100名を超える入院患者が高野病院に残されていた。年末年始に重なり行政の対応も難しかったことから、坪倉医師や私など浜通り地方の有志の医療者が中心となり、「高野病院を支援する会」を立ち上げ、私も事務局長として奔走した。

当座を凌ぐためのボランティア医師をSNSで募集したり、その費用を賄うためのクラウドファンディング立ち上げを広野町と行った。幸い、数十名のボランティア医師が全国から集まってくれた他、クラウドファンディングでは894万円の資金が集まった。広野町の尽力もさることながら、震災後、献身的に地域の医療を支えてきた高野院長や高野病院の姿勢に、多くの方が心を動かされたのだと考えている。数カ月の活動の間に、徐々に支援の中心は行政に移り、我々は元の診療を中心とする生活に戻ることとなった。

一見万事うまく運んだように見えるが、この経験は、私にむしろ強い危機感を与えた。震災からの復興を目指す被災地において、医療はなくてはならないインフラである。しかし、そのプレーヤーたる医療機関が、震災後疲弊し、実際にはギリギリの状態で診療を継続していることを痛感したからである。18年にいわき市に移った際にも、そのことを実感した。いわき市は、歴史的に、医師不足、特に病院勤務医師の不足に悩まされてきた。例えば18年時点で、10万人当たりの医師数は、全国平均の241人を下回る165人に留まっていた。

また、医師の高齢化も深刻であった。17年のいわき市の医師の平均年齢は43の中核市において最高齢(55.5歳)と報告されていた。都市部や大学病院から離れているという不利な地理的条件に、震災による風評被害や仙台市とのアクセス悪化が追い討ちをかけたのだろう。それだけに、若手医師のリクルートは、喫緊の課題であると考えられたのだ。

「次の10年」支える医療者を育成

南相馬市立総合病院、坪倉正治医師(上)、小鷹昌明医師(下)

ではどうするか。その際にお手本になったのが、私が14年から在籍した南相馬市立総合病院の取り組みである。震災前の10年、その常勤医師数は12人に過ぎなかったが、震災後の16年には32人まで増加した。中でも20代の医師数の増加は著しく、この期間に0人から8人に増加した。最大の理由は、若手医師を受け入れる体制の構築と魅力ある職場作りに成功したことである。まず若手医師を受け入れる体制についてであるが、南相馬市立総合病院は、13年から基幹型臨床研修病院として、初期研修医の受け入れを開始した。これは、医学部卒業直後の初期研修医を、2年間公に受け入れて、責任を持ってその教育に携わるシステムが確立したことを意味する。さらに、当時の南相馬市総合病院においては、大平医師のように元々現地にいた医師と坪倉医師のように震災後に外部から入ってきた医師が化学反応を起こして、極めてユニークな職場となっていた。その中で、一際異彩を放っていたのが、小鷹昌明医師(53)である。小鷹医師は元々獨協医科大学で准教授まで勤め上げたエリート神経内科医だったが、震災を契機に12年より南相馬市に移り住んだ。そして、持ち前の行動力を生かして、診療以外にも、現地の課題に即して、住民目線で、「町おこし活動」を行っていた。様々な人材を柔軟に受け入れ、それをその魅力につなげる懐の広さが、南相馬市立総合病院には存在したのである。

その結果、南相馬市立総合病院は、13年と14年には2人、さらに、15年には4人の初期研修医を受け入れることに成功した。一緒に仕事をした研修医のうち思い入れ深いのは、澤野豊明医師(30)である。私が赴任した14年当時、彼は1年目の初期研修医だった。南相馬市立総合病院は臨床研修病院として必ずしも指導体制が確立されていたわけではなかった。しかし、彼にはこんな優秀な研修医がいるものかと驚かされることが多く、大いに刺激を受けた。初期研修医を受け入れることの副次作用は、病院全体が活性化することである。彼はその象徴のような存在だった。澤野医師は、その後、外科の後期研修医として病院に3年目以降も残ってくれて、同僚として様々な手術や患者の管理をともに行った。また、論文執筆にも興味を持っていたため、震災後の健康問題についても、多くの英語論文を一緒に執筆した。なかでも、彼が、南相馬市立総合病院に入院していた除染作業員のデータをまとめた論文は、当時メディアにも大きく取り上げられ、この問題に対して社会の関心を集める大きな助けとなった。

澤野医師は20年10月から、私が働く常磐病院に合流、頼もしい同僚として、現在、再び一緒に診療に従事している。

そのような経験もあり、当院においても、初期研修医を受け入れるための体制の構築、また魅力ある職場づくりを病院一体となって進めてきた。まだまだ道半ばではあるが、今後もさらにその歩みを加速させるつもりである。もちろん、駆け出しの医師の教育に携わることには大きな責任が伴う。しかし、今の医学教育においては、医学知識以外にも、医師としての全人的な姿勢が重視されるようになっている。震災から10年が経過したが、その教訓から多くを彼らに伝えられると信じているし、それが被災地の次の10年を支える医療者の育成につながっているはずである。

著者プロフィール

尾崎章彦

乳腺外科医

1985年福岡県生まれ。東京大学医学部卒。東日本大震災に大きな影響を受け、福島県に移住。一般外科診療の傍ら、震災に関連した健康問題に取り組む。専門は乳癌。

   

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