サントリーホールディングス副会長 三代目マスターブレンダー 鳥井 信吾 氏

「日本のウイスキー」旋風 文化財団40周年の「報恩」

2019年5月号 BUSINESS [リーダーに聞く!]

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鳥井 信吾 氏

鳥井 信吾 氏(Shingo Torii)

サントリーホールディングス副会長 三代目マスターブレンダー

1953年生まれ。甲南大学卒業。南カリフォルニア大大学院修了。92年取締役、03年副社長、12年関西経済同友会代表幹事、14年より副会長、大阪商工会議所副会頭。創業者の鳥井信治郎氏は祖父、二代目社長の佐治敬三氏は伯父に当たる。02年よりマスターブレンダー。写真/平尾秀明

――ウイスキー販売が絶好調ですね。

鳥井 日本のウイスキー市場は83年をピークにダウントレンドが続きました。昭和の終わり頃になると、焼酎ブームが巻き起こり、市場がピーク時の5分の1に落ち込んだ時もある。お酒を飲むことは文化であり、お酒は嗜好品。消費者の好みが我々より先に多様化してしまった。国内市場が拡大に転じたのは25年後の09年。立役者は「角ハイボール」でした。今では居酒屋などで若者がジョッキでハイボールを飲む姿は珍しくないけれど、十数年前は考えられない光景でした。

どんな場面でも「真剣勝負」

――サントリーの三代目マスターブレンダーとして、世界的な「日本のウイスキー」旋風を、どうご覧になりますか。

日本のウイスキーのふるさと「山崎蒸溜所」(大阪府島本町)

鳥井 ジャパニーズウイスキーの快進撃は、03年に『山崎12年』が、ISC(インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)で日本のウイスキーとして初めて金賞を受賞したことに始まります。10年に『山崎1984年』の「オリエンタルな香りと甘やかな口あたり」が高く評価され、ISCの頂点に立つ「シュプリーム・チャンピオン・スピリット」を受賞。日本は名実ともに五大ウイスキー産地の一つになりました。

――昨年、香港のオークションで『山崎50年』が1本3250万円で落札されたニュースが、世界を駆け抜けました。

山崎蒸溜所の「ポットスチル」

鳥井 日本のウイスキー生誕地「山崎蒸溜所」を訪れる外国人が増え、見学者の半数以上が外国人の日もあります。海外から「何とかして手に入れたい」とのご要望をいただきますが、急激な需要増から原酒が不足し、誠に申し訳ない限りです。ウイスキーは樽に10年20年と静かに寝かさなければなりません。

――ウイスキー復活の原動力は?

鳥井 市場が厳しい中でも投資をして品質向上に努めてきました。ウイスキーのうまさが第一の理由でしょう。さらに敢えて言うなら嗜好の変化、トレンドや世相にもマッチしたということでしょう。実は今、米国でバーボンウイスキーがよく売れており、70年代のウオツカがバーボンを抜く「白色革命」と称される低迷期から、復活を果たしました。米国の消費をリードする80年以降に生まれたミレニアル世代が「バーボンはアメリカ人が自らの手で作った伝統的な酒」と評価し始め、よく売れるようになったのです。

――日本のバーで女性が独りシングルモルトを楽しむ時代になりました。

モルト原酒の樽熟成(山崎蒸溜所の貯蔵庫)

鳥井 無色の蒸留酒(ウオツカや焼酎)と異なり、琥珀色を帯びたウイスキーは断然複雑系のお酒です。科学が発達した現在でも、ウイスキーづくりの現場は謎に満ちています。なかでも樽熟成の神秘は興味が尽きません。ウイスキーに親しんでいると、誰でもお気に入りのモルトと出会い、好きなタイプの香味に気づくようになります。やがて奥深い世界の虜になってしまうのは、ワインの虜になる道筋と、よく似ていると思います。

――ウイスキーとの初めての出会いは。

鳥井 中学生の頃『オールド』を瓶のフタに注いだら、畳の上にこぼしてしまった。途端にえもいわれぬ大人の香りが広がり、「こんなものを飲んでいるのか」と、たまげたのを覚えています(笑)。

――初代マスターブレンダーの創業者や二代目マスターブレンダーの佐治敬三氏(伯父)から、何を受け継ぎましたか。

鳥井 祖父(初代)は高齢でしたから、伯父から多くを学びました。今でも鮮明に覚えているのは、親族の集まる夕食会でウイスキーを口にした伯父が「これは違う!」と声を上げたんです。当時学生だった私は何が違うのか、さっぱりわかりませんでしたが、伯父のメガネがギラッと光るのを見ました。劇画の一コマみたいですが、眼光は半端じゃなかった(笑)。親族との和やかな会食でも、マスターブレンダーはウイスキーと常に対峙している。どんな場面でも真剣勝負の気構えを、伯父から教わった気がします。

脈々と受け継がれる「創業者の志」

――鳥井さんが理事長を務める「サントリー文化財団」が40周年を迎えました。

鳥井 当財団は、当社の創業80周年を記念して1979年に大阪で設立されました。創業者の信治郎は、経営において「やってみなはれ」という積極姿勢を貫く一方、自らの事業は「天地の報恩」とも語り、他者への思いと社会奉仕への心情が常に心の中にあり、様々な社会貢献活動に熱心でした。その後を継いだ二代目の敬三は、物質的に豊かになった日本に心の豊かさをもたらすのは文化の役割が重要と考え、当財団を立ち上げました。

――サントリー「学芸賞」と「地域文化賞」は人口に膾炙し、大きな足跡を残しています。

鳥井 40周年に当たり、新たに「〈知〉をつなぐ、〈知〉をひらく、〈知〉をたのしむ」というコンセプトを掲げ、「プレミアム・ミニトーク」「地域文化フォーラム」などの記念事業を開催します。その記者発表が40年前の79年2月1日の財団設立の記者発表と全く同じ、大阪のリーガロイヤルホテル「桂の間」で開かれたことは、たいへん感慨深いものでした。40年前の壇上には山崎正和先生、開高健さん、高坂正堯先生、そして佐治敬三の姿がありました。その日から今もなおご指導くださる山崎先生(85、文化勲章受章者)は、当財団の大恩人です。先生からは①サントリー学芸賞は受賞者が受賞して終わることなく、その後も選考委員になるなど関係を継続して、後進の発掘育成に努めること、②財団の専務理事以下の事務局にはサントリーの第一線で働く若く優秀な人材を配すること、③サロン的な「場」を通じ、アカデミズムとジャーナリズムの結合を目指すこと――。三つのことを言われて、それが当財団のアイデンティティになっています。

創業者の鳥井信治郎氏(左)と二代目マスターブレンダーの佐治敬三氏の銅像(撮影/本誌 宮嶋巌)

ウイスキーとビールは麦と水、ワインはブドウから生まれます。創業者は、我が事業は天地の恵みによって生まれたから、その恩に報いたいと考えていました。二代目の敬三は文化財団の他にサントリー美術館、芸術財団、サントリーホールなど新たな文化貢献活動を立ち上げました。創業者の志は、今も脈々と受け継がれ不変です。

(聞き手/本誌発行人 宮嶋巌)

   

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