「円生襲名争い」の恥っさらし

芸歴30、40年のベテランが見苦しい泥仕合。誰が継ごうと、芸も人気も先代を超えるのは到底無理。

2010年9月号 LIFE

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昭和の名人といわれた三遊亭円生

Jiji Press

昭和の名人・故六代目三遊亭円生(1979年9月3日没)の後継問題が、没後30年の今、遺族も巻き込んだ泥沼の争いになっている。

七代目襲名に名乗りを上げているのは、三遊派の鳳楽(63)、円窓(69)、円丈(65)の3人。鳳楽は円生の孫弟子、円窓、円丈は直弟子。いずれも芸歴30、40年のベテランである。

芸人も誰しも大名跡は継ぎたい。まして、落語界は、血筋優先の歌舞伎役者と異なり、誰でも襲名争いに「参加」できる。従来も襲名問題でゴタゴタしたことはあったが、この「円生襲名騒動」は、一筋縄ではいかないようだ。

落語史上例のない「愚行」

騒動が表面化したのは昨年10月29日、五代目三遊亭円楽が肺がんで亡くなった直後。円楽は、真打の粗製乱造に反対した円生が78年6月、落語協会を脱退、落語三遊派を設立した際に行動を共にし、翌年、円生が急逝した後も、「円楽党」などと名前を変えながらも、円生の遺志を継いだ形で一門を統率してきた。

その円楽が生前、「円楽は楽太郎(現六代目)に、円生は鳳楽に継がせる」と、一門の前で明言した。円楽には、円生の名は自分が預かっている、という矜持があった。この言葉を一門は信じ、現に今春、楽太郎が六代目円楽を襲名した。そして、「七代目円生」を指名された形の鳳楽が、数年後の襲名に向けて準備を始めた矢先に、六代目のかつての2人の弟子たちから「待った」が掛かった。「七代目円生は直弟子が継ぐべき」というのが理由である。

確かに鳳楽は円楽の一番弟子である。しかし、円生はこの孫弟子に自分の本名(山崎松尾)の一字「松」を与えて「楽松」と名乗らせた(真打で鳳楽と改名)ほどだ。

総帥・円楽の死による「重し」が取れた途端に挙がったかつての直弟子たちからの「異議申し立て」に、円楽一門の人たちは戸惑っている。

「我々は、円生の遺志・精神を受け継いできた。協会脱退後は定席にも出演できない辛苦を味わいながら独自の活動を続けてきたのだ。あっさり落語協会に復帰していった弟子に円生の跡を継ぐ資格があるだろうか。そもそも円窓さんは春風亭柳枝の弟子であって、後から円生一門に加わった人だし……」

協会分裂・独立会派設立騒ぎを起こしてまで落語界改革を成し遂げようとした円生一門を継いだ円楽が亡くなったのを機会に、いちゃもんを付けてくるとはアンフェアだ、という思いもある。

もう一つ、混乱を招いた大きな原因がある。死去から7年後、突然、円生の名跡を「止め名」にした一件である。円生の名跡は以後誰にも継がせない、という覚書。円生の遺志ではなく、はな夫人(故人)の意向である。円生ファンで、演芸研究家の山本進氏、円生の高座を録音してきた落語CDプロデューサーの京須偕充氏らが立会人になって、これにサインをした。落語史上例のない「天下の愚行」としか言いようがない。立会人の一人、故・稲葉修元法相でさえ、「法的拘束力はないよ」と他の立会人に明言している。

歌舞伎など邦楽系の襲名と違い、江戸時代から力のある者が営々と引き継いできた名跡を勝手に止めてしまう権利など、遺族にも周囲の取り巻きにも、ないはずである。五、六代目と山崎家の縁戚が円生を名乗ったが、それ以前は山崎家とは無縁の人によって継承されてきた。

落語界では、以前から指摘されていたことだが、名跡を協会が一括して管理する体制が確立されていたら問題は起こらなかった。

京須氏は後に、「名声を惜しむ感傷的な気分と周囲の勢いから」だったともらし、この5月には「止め名の解除」を表明している。これを受けた円窓が、さっそく故人の長男である山崎耀一郎氏から襲名の許可を受けるべく行動を起こした。

だが、その申し入れを受けた落語協会(当時は鈴々舎馬風会長、現在は柳家小三治会長)は「一門で解決すべき問題。協会が指図する事案ではない」と、介入を拒否した(5月17日の理事会)。

小三治などは、「川柳(せんりゅう)(川柳[かわやなぎ])=円生の弟子でさん生といった)に、『お前も円生の弟子だったんだから襲名する資格があるぞ。応援してやるぞ』ってからかってやったよ」と、冗談を言っていたくらいである。

その川柳をゲストに、鳳楽、円丈による「円生争奪杯落語会」が3月に開かれて話題になった。

どこを突いても爆発しそう

当事者はどう考えているのか。

鳳楽は「そんなシチ面倒臭いことになるんなら、いっそ円生を継がない方がいいかも……。鳳楽の名でもう30年もやってきて、この名も浸透している」と、やや焼け気味だ。

円窓は、最近手にした円生の長男、耀一郎氏と京須氏の「止め名解除」の書状を“切り札”として、鳳楽宛に「揉め事を解決することは、山崎家のためでもあり、円生一門のためでもある。勇気をもって我々二人が解決のきっかけを作ろうよ」と、文書で呼び掛け、襲名に意欲的だ。

だが鳳楽は目下、この呼び掛けには応じず、黙したままだ。それというのも、山崎家も一枚岩ではないからである。

もう一人、円生の後継問題に影響力を持つ孫の力義氏が、「後継者は鳳楽」を支持し、鳳楽もそれに沿って動いてきた。力義氏は、円生の次男、故・佳男氏の長男。佳男氏は、円生のマネジャーとして終生、円生を支えてきた。「落語のことは次男の佳男が仕切ってきた」との自負がある。経緯からも力義氏の発言は無視できない。

円丈は、争奪落語会を仕掛けたものの、その後は鳴りを潜めたまま。実質的には鳳楽と円窓の争いだ。

問題が複雑化して、どこを突いても爆発しそうな状況である。泥沼化した「襲名争い」を見つめる周囲の目は冷たい。協会は前述のとおり、静観の構えだが、ある幹部は「3人の誰が継ごうと、芸も人気も先代を超えるのは到底無理。恥をかくだけ」と手厳しい。「誰とは言わないが、大名跡を継いで押し潰されそうな例もある。志ん生を継がなかった(故)志ん朝の見識はすばらしい」と、襲名の難しさを語っている。

この騒動、簡単に片づくとは思えない。結果的に「止め名」になってしまうようなことになったら、それこそ、落語界の一大損失である。

昭和30、40年代にかけての「落語ブーム」の一翼を担い、昭和天皇の御前口演、噺家初の歌舞伎座独演会など、頂点を極めた六代目円生だが、芸以外でも何かと話題に上ることが多い。生まれたのは、あの大名人、三遊亭円朝(二代目円生の弟子。円朝こそ「止め名」に相応しい)が没した1900年。亡くなったのは千葉県習志野市での後援会発足の会場。自身78回目の誕生日だった。その直後にパンダの「ランラン」が死んだため、翌朝の朝日新聞の社会面は、「昭和の名人」の死よりも、パンダの死を大きく報じたほどである。

とにかく再来年は円生の三十三回忌。落語ファンは噺家の名前を聞きに行くわけではないのだが……。

   

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