「瀕死のJDC」戦後初の信託会社倒産か

2009年9月号 BUSINESS [ビジネス・インサイド]

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信託財産の流用や循環取引に伴う有価証券報告書の虚偽記載など数々の法令違反が発覚し、6月に金融庁から3カ月間の一部業務停止命令を受けたジャパン・デジタル・コンテンツ信託(JDC)が断末魔の様相だ。起死回生をかけた6月の増資も空しく、資金繰りはまさに綱渡り。大株主や役員らが手を引き始め、戦後初の信託会社の倒産も絵空事ではなくなった。

JDCは長銀出身の土井宏文氏がコンテンツ産業を育成する名目で旧通産省の支援を受け、98年に設立。00年、東証マザーズに上場し、信託業法改正後の06年には第1号の映画ファンドを組成。『フラガール』などの作品がヒットし、一躍脚光を浴びた。しかし、幸運は続かない。じきに鳴かず飛ばずとなり、高リスクの自己投資のファンド運営に傾斜、業績を悪化させた。

08年に入ると不祥事が続出。6月には従業員がファンドの出資金の一部を持ち出し、金融庁から最初の行政処分を受けた。09年2月には、03年から繰り返していた複数の会社との循環取引による粉飾が発覚し、過年度の決算修正を余儀なくされた。赤字続きのうえに信用力が低下。増資しか存続の道がなくなっていた。

同社の窮状に救いの手を差し伸べたのは、シンガポールのSPCであるJCMインベストメントマネジメントが管理するファンド「ゴージャス・グレイス・インベストメンツ」。昨年12月増資に応じ、51%超の筆頭株主となる。ところが、JCMの土屋太郎代表は「おっかない仕手筋と関係が深い」と噂される人物。これを契機に、土屋氏が送り込んだいわくつきの輩や大株主の動きが物議を醸すことになる。

3月の社長就任から3カ月で解任された日本生命出身の平田充氏は、当局の承認を受けずにPSI証券の社長を兼ねていたため、業法違反に問われた。平田氏は日生時代から金遣いの荒さが尋常でなく、JDC解任時にも私的流用が問題になった。平田氏に同情の余地はなく、背景には取締役の齊藤勝久氏との対立があった模様。6月の株主総会で社長に就任した小田村芳忠氏の下で実権を握ったのが、同時に専務に昇格した齊藤氏だった。

齊藤氏は不動産業などを営むKOSCO(本社・港区)の事実上のオーナーであり、東京・青山の再開発で「荒っぽい地上げを手がけた人物」(地元不動産筋)。JDCの実権を握ったのは、「将来の地価上昇に備えて底値で土地を買い集めるためではないか」と、齊藤氏に近い人物は語る。業界の表裏に通じた齊籐氏なら「JDCは資金調達に便利な『箱』になる」と考えたとしても不思議はない。

しかし、その前にJDCは純資産基準をクリアしなければならなかった。JDCの09年3月末の純資産は5千万円弱と、業法が求める最低資本金額1億円を割り込んでいた。しかも09年3月期で5期連続赤字を計上しており、報酬の支払いも一部滞る始末。目先の運転資金の確保に迫られていた。

土屋氏の紹介で、投資会社モンテブランコ・キャピタル(現レイクウッドインベストメント)が管理するレイクウッド1号投資事業組合など3社が6月、JDCの増資引き受けを表明。運転資金の不足分約3億円は、レイクウッドなど増資引受先2社から借り入れることにしたが、受け取った小切手が不渡りになったと発表した。しかもその理由が、小切手の振出人が出資者とは異なる銀行取引停止中の会社だったという、何とも不透明な内容だった。

増資によって純資産基準はクリアしたが、運転資金の確保は未解決だった。JDCは新たな増資で手当てをすると発表したが、具体的な計画は不明。そんな中で7月31日、社長の小田村氏が代表権のない会長に退き、専務の齊藤氏が社長に昇格した。JDCには華僑系の筋の悪い資金が流れ込んでいるとの噂が絶えず、平田元社長は「その存在に怯えていた」(関係者)という。小田村氏の実父は旧大蔵省の大物次官だったため、社長就任に周囲は猛反対した経緯がある。

ここにきて主要株主のファンドらも相互に売買を繰り返すなどして持ち株を減らし、撤退モードに入った。8月7日には、6月に就任したばかりの会計監査人が資金調達の見通しをめぐる見解の相違を理由に辞任。東証は同社株を監理銘柄に指定した。金融庁は免許取り消しを視野に入れている。

   

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