「現場からの医療改革」/逸材育む「創立20年の奮闘記」/上 昌広・医療 ガバナンス研究所理事長

2025年11月号 LIFE [「官でない公」の実現]
by 上 昌広 (医療ガバナンス研究所理事長)

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「第19回現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」の記念写真。前列左から5人目が鈴木寛氏、6人目が筆者。(2024年11月)

「官ではない公」――現在の日本社会に欠けているものだ。どうすればよいのか。当事者が課題に向き合い、試行錯誤を重ねるほかない。その過程を通じて、具体的な仕組みが構築され、次代を担う人材も育つ。筆者はこのような取り組みを「現場からの医療改革」と名づけ、20年にわたり続けてきた。

きっかけは、2003年の鈴木寛参議院議員(当時、現東京大学公共政策大学院教授)との出会いだ。私の母校(灘中学・高校)の5年先輩で名前は知っていたが、面識はなかった。あるシンポジウムで同席した後、「予定調和を破る姿勢が面白い。一緒に医療改革をやらないか」とのメールをいただいた。

当時、私は35歳。国立がんセンター中央病院に勤務する内科医で、現状に行き詰まっていた。上司との軋轢を抱え、病棟勤務から外されていた。外来診療がない日は、朝8時に出勤し、終業まで仕事がなく、医局で時間を潰していた。鬱々とした日々を送っていた私にとって、鈴木氏の提案は魅力的だった。その頃、鈴木氏は人生の旬にあった。2004年には、教え子である川邊健太郎氏(現LINEヤフー会長)や佐藤大吾氏(NPO法人ドットジェイピー理事長)らとともに、プロ野球の1リーグ化阻止に奔走。その後09年の東京都議選で民主党は圧勝し、09年の政権交代への流れを生み出した。

鈴木氏が次の課題としたのが医療であり、同志を求めていた。私と鈴木氏は連日会い、議論を重ねた。本稿では詳述しないが、関係者の支援のおかげで、2005年10月に東京大学医科学研究所に探索医療ヒューマンネットワーク研究部門という研究室を立ち上げ、独立することができた。

周産期医療の崩壊をくい止める!

口角泡を飛ばすシンポジウムの質疑応答(2024年11月)

私は仕事に飢えていた。何かしたくてたまらなかった。最初に関わったのは、2006年2月に発生した福島県立大野病院産婦人科医師逮捕事件だ。逮捕された医師の大学同級生から「応援してほしい」と携帯電話で連絡を受けた。前置胎盤、癒着胎盤という稀な合併症が重なり出血死したケースで、執刀医の刑事責任を問うのは無理筋らしかった。

この時、最初に相談したのが鈴木氏だった。この話を伝えると表情が険しくなり、「刑事事件が起これば、医療界は崩壊する」と、彼が最初に頼ったのが仙谷由人衆議院議員だった。仙谷氏はすぐに旧知の法務省幹部に電話したが、「この事件は筋が悪い。ただ、もう数日早ければ起訴を止められたが、もはや難しい」との返答だった。仙谷氏は「こうなれば世論勝負だ」と言ったが、どう動いたらいいか、わからなかった。

その頃、逮捕された医師の上司である佐藤章・福島県立医大産婦人科教授と連絡がつき、「私はどうなってもいい。彼を守るためなら何でもする」と言われた。当事者が腹を据えると事態は動く。佐藤教授、鈴木氏とともに「周産期医療の崩壊をくい止める会」を立ち上げ、署名活動を始めた。最終的に5520筆の署名が集まり、佐藤教授が川崎二郎厚労大臣(当時)に提出した。

メディアも動いた。私が頼ったのは、フジテレビ『とくダネ!』のプロデューサーで福島出身の宗像孝氏だった。筆者の東大剣道部時代の2年先輩で、故郷の問題でもあり強い関心を示し、優秀なスタッフを紹介してくれた。彼らは「これは国民にとって重大な事件です。動きます」と応じてくれた。『とくダネ!』が特集を組むと、他局も追随した。やがて、世論の風向きも「医療ミス」から「産科崩壊」へと変わった。

08年8月、福島地裁で無罪判決が下り、検察は控訴せず、判決は確定した。本件は法学部の教科書にも取り上げられる有名な事件だ。国民が支持すれば、やり方次第で世の中は動くと実感した。この事件をきっかけに、「医療崩壊」が国民的コンセンサスとなった。同時に「同志」が増えた。こうして06年11月に始まったのが「現場からの医療改革推進協議会(改革協議会)」である。発起人には医師、看護師、患者、メディア関係者に加え、舛添要一、仙谷両氏ら政治家も名を連ね、鈴木氏と私が事務局を務めた。

改革協議会では、志ある人々が自主的に集まり、対話を重ねて信頼を築き、分散的に行動する。インターネットと携帯電話の普及により、仰々しい組織を作らずとも議論を継続できるようになった。対極は霞が関である。医療行政は、短期間で異動を繰り返す医系技官と、その意向に従う有識者による審議会が主導する。本質はディテールに宿るというが、官僚と有識者から構成される「素人」集団に本質的な議論はできない。

「駅ナカ」コンビニ診療所で経済的独立

我々の枠組みを活用する政治家も現れた。07年に厚生労働大臣に就いた舛添氏だ。就任時の会見で「現場からの医療改革推進協議会」の名前を上げ、独自の専門家集団と議論していると訴えた。官僚やメディアを意識した発言だったのだろうが、この日、私の携帯電話に取材が殺到した。

08年6月、舛添氏は1997年の医学部定数削減方針を撤回し、2016年までに約1500人の定員増が実現した。この時、医系技官は激しく抵抗、大学幹部に「舛添氏の方針に反対するように」働きかけたが、世論と医療現場からの訴えをバックに反対を押し切った。舛添氏は「『安心と希望の医療確保ビジョン』具体化に関する検討会」を立ち上げ、そこに議論を委ねた。11人の委員のうち4人が改革協議会の関係者だった。人選について、私も相談を受けた。医系技官は「大臣の暴走」と批判したが、現在の医師不足を考えれば、どちらの主張が正しかったか、議論の余地がない。こんな抵抗ばかり続けているから、日本の医療は停滞するのだ。

筆者は東日本大震災以降、福島の復興支援を続けているが、その出発点も改革協議会だった。震災直後、当時官房副長官だった仙谷氏から「相馬市長の立谷(秀清)さんが支援を求めている。私が知る中で最も有能な首長の一人だ。行政ができないところを、先生たちのネットワークで応援してほしい」と依頼を受けた。

立谷市長と電話で話すと、その判断の的確さに感服した。震災当日の夜から棺の確保、仮設住宅用地の手配、双葉郡からの避難者の受け入れなど、先を見据えた指示を次々と出していた。この時、改革協議会から相馬市に派遣したのが、東大医科研の大学院生だった坪倉正治医師である。立谷市長は臨床医でもあり、住民の健康、被曝対策に並々ならぬ関心があり、独自に健診や被曝検査を推し進めた。市役所とともに、現場での実務を担ったのが坪倉医師だった。彼は、この経験をもとに研究を重ね、現在は福島医大教授として放射線災害医療を世界的にリードする存在に成長した。現場での試行錯誤を通じて、人材が育った具体例である。

医学界に限らず、日本社会は同調圧力が強い。生き残るためには、長いものには巻かれざるをえず、そうやっているうちにまともな判断力を失ってしまう。「なぜ、先生たちは、言いたいことを言い、やっていけるのですか」と質問を受けることがある。その理由は、経済的に独立しているからだ。活動資金を税金に依存していない。支援者に恵まれていることに加え、自分たちで医療機関を経営していることが大きい。JR東日本の三つの駅ナカ(川崎・新宿・立川)でコンビニ診療所を営む「ナビタスクリニック」である。

その前身は、新宿西口の雑居ビルで始めたコラボクリニックで、立ち上げには鈴木氏の力を借りた。そもそも「コンビニクリニック」という発想は、彼のものだった。医療も流通業と同じく総合病院は専門病院に、開業医はコンビニ型のチェーンに変わると予見していた鈴木氏は、資金や場所の確保だけでなく、学生スタッフや指導者まで集めてくれた。前出の川邊氏らが加わり、東大医科研の研究室に足繁く通って若者を鍛えてくれた。彼らから「ビジネスで成功するには徹底力が必要」「夜にメールするな、礼儀を守れ」といった基本を叩き込まれ、「ヒルズ族」の意外な一面に驚かされた。当時の学生の中から、エネルギーテック企業の「エネチェンジ」創業者、城口洋平君らが育っている。

ナビタスクリニックの立ち上げでは、JR東日本からも支援を受けた。特に、新井良亮副社長・ルミネ社長(当時)と鎌田由美子・エキュート社長(当時)にお世話になった。彼らは、駅という公共空間の有効活用を追求し、高輪ゲートウェイシティは、新井氏が種を蒔いた企画だ。彼らの仕事ぶりから学ぶことが多かった。

「製薬マネーデータベース」を公開

「官でない公」の活動として、もう一つご紹介したい。それは製薬マネーデータベースの公開だ。製薬企業と医師の癒着は世界共通の現象で、医療業界特有の構造的問題を抱え、世界各国が試行錯誤している。例えば、米国は2010年に「サンシャイン法」を制定。製薬企業から医師への支払い情報が政府サイトで公開され、研究にも活用されている。

日本では、2010年代前半に問題となったノバルティスファーマ研究不正事件後に日本製薬工業協会が公表を始めたものの検索性が低く、データの2次利用も禁止されていた。米国のように政府がリードすることもない。それなら自分たちでやるしかないと、我々は19年1月に日本で初めて、医師への支払いを検索可能なデータベースとして公開した。中心となったのは、尾崎章彦医師だ。2010年に東大医学部を卒業し、福島県いわき市で診療・研究を続けている。医療ガバナンス研究所の理事でもある。

このプロジェクトに対する医療界の風当たりは凄まじかった。私と尾崎医師には「そんなことをすると、君たちの将来にとってよくない」という「忠告」が寄せられた。我々の支援者にも「彼らとは付き合わない方がよい」と風圧がかかった。いかにも医療界らしいやり方だ。18年9月に、医療ガバナンス研究所がシンポジウムを主催した際には、武田薬品に勤務する医師が会場で、私を誹謗中傷するビラをばら撒いたこともある。後日、上司が詫びに来たが、大手製薬企業が「ここまでするか」と驚いた。

現在、このデータベースは国内外で注目を集めている。警察関係者が利用し、贈収賄事件の端緒となったこともあるという。「官ではない公」の実現に貢献したと考えている。

以上、「現場からの医療改革」20年の道のりをご紹介した。11月1、2両日、建築会館(東京・田町)で「第20回現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」を開催する。本稿で実名を挙げた人物が全員登壇し、口角泡を飛ばす姿を、是非、ご覧いただきたい。会場及びオンライン参加を募集中です。

著者プロフィール
上 昌広

上 昌広

医療ガバナンス研究所理事長

1968年兵庫県生まれ。特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長 東大医学部卒、医師。2016年まで東大医科学研究所特任教授を務める。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論。

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