2025年11月号
LIFE
by
鈴木美勝
(ジャーナリスト 専門誌「外交」前編集長、時事通信・時事総合研究所客員研究員)

若泉敬を偲び献杯する谷内正太郎
彼岸まで2日という立秋の午後。国際政治学者・若泉敬(若泉敬/1930~96年。沖縄返還を巡り、アメリカ側と秘密交渉にあたった国際政治学者。自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で沖縄返還に関する密約を暴露し、2年後に自裁した。)の生まれ故郷・福井県越前市で、生誕95年記念イベントが開かれ、「師弟関係」にあった初代国家安全保障局長・谷内(やち)正太郎(81、富士通フューチャースタディーズ・センター理事長)が特別講演を行った。演題は「未来への道標―若泉敬先生から学ぶ」。
首相・佐藤栄作の密使として沖縄の祖国復帰に尽力した若泉だが、晩年、日米首脳が密約を結ぶに至った交渉の内幕をつぶさに書き遺し、忽然とこの世を去る。その若泉と大学時代に運命的な出会いをした同じ「北陸人」谷内は講演に先立ち、篠突く雨の中、鯖江市営「総山墓園」に足を運んだ。若泉自筆の「志」の文字が刻まれた地球儀状の墓石の前で手を合わせる谷内。その脳裏にどんな思いが去来していたであろうか。
谷内正太郎は、高校時代まで富山市郊外の田舎町で育った。父の勤務先の社宅での祖母と両親、妹との五人暮らし。正太郎の部屋からは、季節ごとに色を変える田畑や森の遥か向こうに立山の峰々が一望できた。
地元の小学校から富山大学附属中学校に進学した谷内は、東富山駅から汽車に乗って富山駅で下車、そこから約4キロの道のりを徒歩で通った。市内を流れる神通川は川幅が広い。架かる大橋はしばしば強風に曝される。冬ともなれば、容赦なく傘に叩きつける風雪に耐えて、この神通大橋を渡らなければならなかった。

「生誕95周記念イベント」会場で談笑する谷内正太郎氏(左)
高校は、県内随一の進学校、富山中部高等学校に通った。校訓は鍛錬・自治・信愛。高校生活は、谷内に、自学自習と併せて総合的な人間力の必要性を覚醒させ、まず学業の場で自身を高めようと努めるようになった。気力、知力、人への思いやり。谷内にとって、人間性の根幹を磨き上げる修養の始まりだった。
高校では、授業に追われる日々の合い間を縫って、小説を読む週末を楽しみにした。読み漁った小説の中で、人間の在り方や生命を尊重する白樺派の思想に共鳴、武者小路実篤や志賀直哉などの作品を数多く読んだ。が、東大に入ると、都会出身の上級生や同期の学生に接して、刺激を受ける。「彼らは知的レベルの高い会話をしていて驚いた。喋り方ひとつとっても、洗練されていて、読む本もリルケの詩集とか、ドストエフスキーの『悪霊』とか、それがすらっと話に出て来る」。地方出身の谷内は「コンプレックスを感じた」。
大学では、禅のサークルに入り、熱心に坐禅に取り組んだが、1962年秋のある日、キャンパスで偶然会った友人に誘われて、「土曜会」というサークルに入会した。そこで、社会科学などの書籍を中心に開く読書会で多様な発想、視点を学んだ。谷内にとって人生の大きな節目となる「運命の人」に出会ったのが、そんな時空間においてであった。戦争を起こした旧世代や権威に反発する空気が強かった50年代初頭、反マルクス主義的立場から日本再建の一翼を担おうとする学生の知的運動体が「土曜会」だった。その創設に深く関与し、サークル活動や飲み会に顔を出すOBの中に若泉敬がいた。
その後、大学院に進んだ谷内は、若泉が拠点とした京都産業大学「世界問題研究所」(東京・新宿区)でアルバイトをし、外務省入省後の一年足らずを、荻窪・若泉家の2階、3畳ほどの小部屋に居候した。
若泉が、自宅に住まわせるほど谷内に心を許したのは、「国際政治」という知的舞台を共有していたばかりではないだろう。北陸生まれの二人に共通するメンタリティーとアイデンティティがあったからだ。
北陸地方の人間に共通する特徴は「まじめさ、我慢強さ、勤勉、人情の厚さ、近所付き合いの深さとよそ者意識の強さ」という分析がある。その点を踏まえると、若泉の生き方の源泉には、浄土真宗が栄え、その教えが生活に浸透した地域における価値観が在った。そうした価値観が、同じ「北陸人」谷内との見えぬ縁(えにし)になっていたように思える。
北陸は、元々、保守的な土地柄。特に、谷内が青春期を過ごした富山県は、3千メートル級の山々が連なる立山連峰と切り立った峡谷を有する川が人々の往来を遮断する。東隣の新潟県との唯一の陸路は、天下の険「親不知・子不知」が控える海岸沿いのみ。加えて、急峻な北アルプスの裾野が日本海に直線的に沈み込む断崖絶壁――。そんな地形に影響された風土の生活環境もあって、谷内の保守思想は、教条的な保守イデオロギーとは質を異にしている。

若泉が書いた「志」の文字が刻まれた地球儀状のお墓の前で
私見では、生活を営む際の保守的な姿勢、親に育てられて、やがて結婚して子を持ち、孫を慈しむ伝統的家族観、そして責任をもって家族を守り抜く父親としての気概が染み込んだ生活保守主義――それこそが、人間の温もりを感じさせる谷内の健全な保守思想のコアになっている。右であれ左であれ、谷内が観念主義的な考え方を排する原点は、実はここにあるのではないか。
では、公人としての自覚をどう磨き上げたか。大学時代、熱心に坐禅に取り組んだのも、どんなことに遭遇しても慌てず冷静に対処する、その気構えをつくり、自分の行動に責任を持つという覚悟を日頃から持つことだった。曰く、人生には「勝負所」が必ずある。「その時」になって初めて、過ぎし日々すべてが実は準備期間だったことに気づくものだ。
69年、外務省に入省した谷内は、外交官としての潜在力を十分理解されていなかった時期もあった。が、タフな課題に向き合い、重責が増していくのに伴い、その本領を発揮した。創造性豊かな構想力によって信頼する部下と共に外交戦略を描いて政策に落とし込み、政治家のパワーをテコに現実のものとしていった。例えば、首相・小泉純一郎の度重なる靖国参拝で日中関係は危機的状況に陥った時代、その立て直しに谷内は動いた。小泉から安倍晋三への政権交代を見通して、安倍の電撃的訪中を仕掛け、両国関係の修復につなげたのだ。加えて、地政学的発想を導入して、「自由と繁栄の弧」と称した日本外交の戦略を絵図面化。それは、第二次安倍政権になって「自由で開かれたインド太平洋」構想へと進化した。さらに「積極的平和主義」の旗を掲げて「地球儀を俯瞰する外交」を展開した安倍首脳外交の司令塔として多くの実績を残した。
2020年12月、谷内は、母校・富山中部高校の100周年記念特別講演会に招かれ、後輩たちにメッセージを送った。
思索以上に実践を通じて現実的外交を推進した谷内は、講演の中で、若泉が私淑した越前の幕末志士・橋本左内の『啓発録』から、人間が生き抜くポイントを引用した。「稚心」を捨てて「振気」――気を振るい起こす。「立志」「勉学」に励み、友と「切磋琢磨」する。「学問に王道なし」と幾何学者ユークリッドの有名な言葉があるが、「人生についても王道はない」。「自学自習」――要は、志を立てて、試行錯誤しながら、答えを自身で見つけていくしかない。人生は短い、その人生の「一時一時を大切にしてほしい」と呼び掛けた。
併せて谷内は強調した。「どんな人でも人生において、これが勝負所だと、鼎の軽重を問われるタイミングが必ずある」――と。その上で、「これまでの人生すべてがこの時、この試練のための準備に過ぎなかったかのように感じた」という、第二次世界大戦下の英国首相チャーチルが就任時に書き残した言葉を紹介した。
青春時代の谷内は、屋上に上れば立山連峰を眺望できる富山中部高校を、自身の修養の場に見立てて勉学に励んだ。そして、その後の公人としての人生、一民間人となった現在も、「自学自習」の歩みを止めていない。
思えば、自裁する1か月ほど前の若泉が東海道新幹線(熱海駅)のプラットホームで別れ際に「どうか日本を頼みます」――と谷内に向かって合掌したことがあった。
若泉から未完の「志」の後事を託された格好になった谷内だが、今、ロシア大統領プーチンのウクライナ侵略や「トランプ2.0」によって戦後体制の崩壊が加速する世界を立て直す具体策をどう構想しているのであろうか。(敬称略)