号外速報(6月21日 16:00)
2026年7月号
DEEP
[号外速報]
by
倉澤治雄
(科学ジャーナリスト)

歴史と伝統を誇るハーバード大学の卒業式(大学HPより)
米ハーバード大学のチャールズ・リーバー元教授は、今や世界で最もホットな科学者のひとりとなった。
リーバー元教授は中国武漢理工大学とハーバード大学による研究所の設立に関して、大学の承認を得ることなく契約書を交わし、研究資金を提供されながら申告しなかったとして20年1月28日、米司法省に逮捕起訴された。
21年12月に言い渡された判決は2日間の禁固刑と罰金5万ドル、それに3万6千ドルの賠償金支払いである。リーバー元教授はハーバード大学を解雇された。
そのリーバー元教授が今年4月、突如、中国深圳に現れた。深圳政府の庇護のもと、脳科学研究機関「i-BRAIN」の所長に就任したのである。「i-BRAIN」は深圳医学科学院傘下の研究所で、人間の脳に半導体チップを埋め込み、身体機能の回復だけでなく、睡眠や記憶をコントロールする「ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)」の研究で知られる。BMIは、中国共産党の「4中全会」で採択された「第15次5か年計画」の重要目標のひとつである。

ハーバード大学を解雇され、脳科学研究機関「i-BRAIN」の所長に就任したチャールズ・リーバー元教授
ロイター(4月30日)によると、リーバー元教授は中国への移住について、「私は『夢』以外に何も持たずに米国から中国に来た。『夢』は深圳を世界のリーダーにすることだ」と語ったという。
この問題は米科学界に波紋を投げかけた。
リーバー元教授はナノ材料の研究でノーベル賞候補となるほどの業績を上げていた。しかし第1次トランプ政権が掲げた中国に対する知財流出摘発プログラム「チャイナ・イニシアティブ」で摘発され、いわば見せしめとして逮捕拘留されたのである。
米国医科大学協会は当時、「『チャイナ・イニシアティブ』は、科学界のマッカーシズムに相当する」と強い懸念を表明するとともに、「研究資金の正当な出所を政治利用すべきでない」と批判した。
「チャイナ・イニシアティブ」では、他にも約150人が摘発されたが、有罪率は低く、バイデン政権が廃止した。
この事件をきっかけに、約1400人の中国系科学者が米国を去ったほか、中国人留学生の米国離れが始まった。
国際教育研究所(IIE)のデータベース「オープン・ドアーズ」によると中国人留学生数はピーク時(19~20年)の37万2千人から直近(25年末)では10万人以上減少して、約26万6千人にまで落ち込んだ。
中国人留学生だけではない。全世界から米国に集まる留学生総数は24年秋から25年初頭にかけて7.2%の減少、25年秋から26年では17.0%の大幅な減少となった。新規留学生数の激減は、米国の大学経営を直撃している。
さらに科学技術を「敵」とみなすトランプ政権の「反知性主義」により、自由で多様な研究教育環境という「アメリカン・ドリーム」は風前の灯火である。
優秀な米国の若手研究者の国外脱出が始まりつつある。頭脳循環の逆回転は米国の研究力に影響を与え始めた。
『Nature』誌が毎年発表する世界の研究力ランキング「Nature Index」で、これまで10年以上、大学部門のトップだったハーバード大学が浙江大学(浙江省・杭州市)にその座を明け渡したのである。
「Nature Index : Research Leaders)」は重要科学雑誌178誌の一次論文12万3千件余りを分析し、研究への貢献度で評価するシステムで、最も正確かつ権威ある研究力ランキングである。
研究機関と大学を合わせたランキングのトップは10年以上にわたって中国科学院である。中国科学院は中華人民共和国建国とほぼ同時に設立された総本山で、100を超える研究所と6万人の研究者を擁する世界最大かつ最強の研究機関である。いわば「別格」である。
ハーバード大学は全体で2位、大学としては10年以上トップをキープしてきたが、ついに浙江大学に抜き去られた。
『Nature』誌は「ハーバード首位陥落」と題する記事で、論文数は0.6%増加したものの、全体の論文シェアは10.8%増加しており、「ハーバード大学は全体の成長率を大きく下回った」と評価した。
順位を落としたのはハーバード大学だけではない。ドイツのマックスプランク協会が初めてベスト10の圏外に去り13位となった。その結果ベスト10の9つが中国勢となった。フランス国立研究機関CNRSは14位から16位へと順位を下げ、東京大学は23位から27位に下げた。
日本の研究機関・大学では他に京都大学(60位)、大阪大学(117位)、東北大学(125位)、東京科学大学(168位)、理化学研究所(169位)、名古屋大学(185位)が200位以内に入る。
10年前、ベスト10に入る中国の研究機関・大学は中国科学院ただひとつだったが、今やトップ100のうち51が中国勢である。科学技術研究の中心は「米国ではなく中国」というのが現実なのである。

分野別に見るとさらに顕著である。「Nature Index」は「応用科学」「健康科学」「自然科学」「社会科学」と大きく4つの分野に分かれている。
「応用科学」はベスト10すべてが中国である。
「健康科学」はトップにハーバード大学、9位にスタンフォード大学が入っているが、残る8つは中国勢である。
「自然科学」は5位にドイツのマックスプランク協会、9位にフランスのCNRSが入っているが、残る8つは中国勢である。
「社会科学」だけは5位に清華大学が入るのみである。

「自然科学」はさらに「生命科学」「化学」「地球・環境科学」「物理学」に分けられる。
中国の弱点とされた「生命科学」でもトップは中国科学院で、浙江大学、中国科学院大学、上海交通大学、北京大学がベスト10に名を連ねる。
「化学」はベスト10すべてが中国勢である。
さらに「地球・環境科学」は9、「物理学」は5と、中国勢の上位占有は著しい。ベスト10に日本の大学が顔を見せるのは「物理学」で9位の東京大学のみである。


ハーバード大学を追い抜いた浙江大学の広大なキャンパス(大学HPより)
トランプ政権によるハーバード大学への攻撃は執拗を極める。
大統領就任直後の25年4月には、反ユダヤ主義への対応などをめぐって22億ドルを超える研究資金が凍結された。一時、訴訟で凍結が解除されたが、トランプ政権は上訴し、裁判は泥沼化している。
大学は25年会計年度で1億2600万ドルの赤字を計上した。財政ひっ迫への懸念から一部大学院で博士課程の学生採用数を50%削減するなどの影響が出ている。
生き残りの命綱は569億ドルにのぼる巨額の大学基金である。
「ハーバード・マネージメント・カンパニー」が運用し、25年度は11.9%と好調な利回りを達成した。約68億ドルの運用益から25億ドルを大学運営費に充てて凌いでいる。
しかしトランプ政権は27年度科学予算でも大幅削減を提案しており、ハーバード大学も影響を免れない。リーバー元教授同様、研究拠点を海外に移す若手研究者の動きが加速していると雑誌『Nature』は指摘する。
科学技術分野での中国躍進のスピードは恐ろしいほどである。
研究力ランキングのベスト10から「ハーバード」の名前が消える日こそ、米国の科学技術覇権が名実ともに終わる時なのである。