知られたのは4月。巧妙な作戦で短期間にブームを起こしたが、企業としての将来は不透明。
2026年7月号 BUSINESS

アンソロピックのアモデイCEOはオープンAI出身だ
Photo:Jiji
「プロジェクト・グラスウィング AI(人工知能)時代における重要ソフトウェアのセキュリティー確保」――。米AI開発大手のアンソロピックが4月7日(現地時間)に自社サイトに掲載したブログのタイトルである。これが現在まで続く“アンソロピック劇場”の幕開けだった。
同社は新たな生成AIモデル「クロード・ミュトス」を開発したと公表したが、提供先を米グーグルや米マイクロソフトなど約50の企業・団体に絞り込んだ。ソフトの脆弱性を発見、悪用する能力が高く、「経済や国家安全保障への影響が甚大になる可能性がある」という理由だ。
この動きにいち早く反応したのが米金融界だった。ベッセント財務長官と金融大手の最高経営責任者(CEO)が同日に緊急会合を開き、対応を協議したという。即日開催の段取りのよさに驚くばかりだが、これを皮切りに世界各地で「ミュトス対策」が重要テーマとなった。
ここへきて注目度が一気に高まった感のあるアンソロピックが誕生したのは2021年のことだ。現CEOのダリオ・アモデイ氏を含む創業メンバーの多くは、対話AI「ChatGPT(チャットGPT)」を手掛ける米オープンAI出身で、同社が営利志向を強める中、安心・安全を旗印に独立した。
オープンAIがチャットGPTなどの個人向けサービスに注力する一方、アンソロピックは企業向けを事業の柱とした。アモデイ氏は「法人向けと安心・安全は相性がいい」と語っている。同社は生成AIの有力な収益モデルとなったプログラミングの自動化で先行し、さらにミュトスにより技術力でも評価を高めた格好だ。
ミュトスを限定公開としたのは、安心・安全を重視する企業として当然のことだが、米シリコンバレーの有力投資家は「別の側面があることにも目を向けるべきだ」と主張する。そのひとつが生成AIを巡る苛烈な企業間競争で、最近の動きを理解するためにはこの視点が欠かせないというのだ。
生成AIの急速な成長を支えているのが「スケーリング則」だというのは、広く知られている。AIモデルは学習データ量や計算量が多いほど高性能になるという経験則で、究極的には画像処理半導体(GPU)などを購入する資金力が雌雄を決する。AI開発企業が新規株式公開(IPO)を急ぐ背景には、こうした事情がある。
事実、オープンAIとアンソロピックはともに年内のIPOを目指しており、投資家へのアピールは欠かせない。そうした中でのミュトス限定公開であり、オープンAI幹部が「当社の最新モデルも脆弱性を発見する機能はド高い」と主張しても、アンソロピックが先行したナラティブ戦ではかき消されがちだ。
「供給を絞ることで希少性を演出し、購買意欲を高める飢餓マーケティングの代表例だ」――。こんな見方を示すのは米テック業界の取材歴が長いベテラン記者だ。この記者もミュトスがセキュリティーリスクを高めたことを認めつつ、マーケティング的な要素が捨てきれないという。
実際、テック業界はそうした事例に事欠かない。04年にサービスを始めたSNSのフェイスブック。当初は米ハーバード大学の学生に限定し、アイビーリーグなど有力校へ段階的に対象を広げることで希少性を演出した。新型コロナ禍の際に流行した音声サービス「クラブハウス」など、同様の事例は多い。
高性能とされる点についても、疑問の目が向けられている。オープンAI出身で、現在は米AIナウ研究所で主任AI科学者を務めるハイディ・クラーフ氏は、英オブザーバーの取材に「独立した評価のためにモデルを開示しておらず、専門家がアンソロピックの主張を確かめる能力を奪っている」と批判した。
だが、いくら外部が“雑音”を奏でようとも、勝てば官軍である。ミュトスが引き続きAI業界の話題の中心となる中、5月28日には米投資会社などから650億ドル(約10兆円)の出資を受け、企業価値は9650億ドルに達したと発表した。2月時点の約2.5倍に相当し、初めてオープンAI(8520億ドル)を逆転した。
さらに、この4日後にはIPOを申請する。生成AIで一貫して先行してきたオープンAIに先んじ、AI分野で競合関係にあり、超巨大IPOの先駆けとなる米スペースXが株式市場にデビューする約10日前という絶妙のタイミングだった。
この間にミュトスそのものを巡る動きもあった。企業価値で「オープンAI超え」が明らかになった5月28日に新型AIモデル「クロード・オーパス4.8」を一般公開すると発表。それに合わせて「今後数週間以内にミュトス級のモデルをすべての顧客に提供できる見込み」と明かし、6月9日に公開した。
限定公開から2か月ほどの短期間で、世界各地の情報システムがミュトス級のAIによるサイバー攻撃に耐えられるだけの準備を整えられたかどうかは心もとない。判断する材料は少ないが、すべてが計算ずくとはいえないにせよ、見事なシナリオ運びだったことは間違いない。
最後に、この2か月の日本における動きにも触れておきたい。ミュトスの公表を受けて自民党が政府に高度なサイバー攻撃への対策を要請したのは4月20日のこと。深刻な影響が及びかねない金融界における対応を片山さつき財務相が日銀や3メガバンクの首脳と協議したのは、さらにその4日後だった。
「対応が遅いことに加え、官民を挙げてミュトスへのアクセス権を求めることに終始したのは残念だった」というのは、あるサイバーセキュリティーの専門家だ。3メガバンクはアクセス権の確保に血道を上げて成果を誇示したが、アンソロピック自身が6月2日に「15を超える国の150機関に追加提供する」と公表している。
そもそも日本は企業規模に対してIT(情報技術)投資が少なく、売上高比率では米国の大企業が4%に迫る一方、日本は1%にすぎないといったデータがある。さらに、そのわずかな予算がレガシーシステムなどと呼ばれる旧式システムの保守運用に回され、先進分野への投資はさらに少ないのが問題だ。
サイバーセキュリティーでもこうした傾向が強く、「経営陣の理解が乏しく、予算が少なく、そもそも人材の層が極めて薄い」(セキュリティー対策会社幹部)。ミュトス劇場が浮き彫りにしたのは、米国の熾烈な競争とアンソロピックの立ち回りのうまさであると同時に、日本のお寒い現実だった。