2025年12月号
BUSINESS
[商略「探照灯」]
by
安西 巧
(ジャーナリスト)

小澤克人社長(HPより)
旧4大財閥(三井・三菱・住友・安田)企業が未だに影響力を誇る不動産業界。最も古い歴史を持つのは三井でも三菱でもなく、安田系の東京建物である。1838年(天保9年)、安田財閥の創始者・安田善次郎は越中国婦負(ねい)郡(現在の富山市、射水市)の足軽兼農家の三男として生まれた。少年期に大坂商人の羽振りの良さに魅入られた幼名・岩次郎は両替商を夢見て故郷を出奔。25歳の時に江戸日本橋小舟町(現在の東京都中央区)で銭両替を営む露店を開業し、3年後の1866年から「安田商店」の看板を掲げた。
幕末維新の混乱期に善次郎は幕府、新政府双方の信用を得て公金御用を拝命し、1872年(明治5年)に国立銀行条例が発布されると渋沢栄一らと共に国立銀行設立に携わった。安田商店を「安田銀行」に改組したのは1880年。鉄道や港湾、水道などの公共事業に資金を提供する一方、共済五百名社(後の安田生命保険、現・明治安田生命保険)や帝国海上保険(後の安田火災海上保険、現・損保ジャパン)などの生損保会社を次々設立。「銀行王」「金融王」の異名はここに由来する。
1921年、神奈川県大磯町の別荘で右翼活動家の朝日平吾に刺殺された善次郎の遺産は当時の国家予算の8分の1に相当した。朝日の斬奸状には「富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝」と記されていたが、「陰徳を積む」を信条とした善次郎は日比谷公会堂や東京大学大講堂(通称「安田講堂」)の建設や天災・戦災の被災者救済に巨額の寄付を行っていたことが死後明らかに。そんな善次郎が不動産金融の必要性から創業したのが日本で最初の総合不動産会社とされる東京建物(小澤克人社長)である。1896年の設立時から割賦販売方式の不動産売買を開始。住宅ローンの原型といえる仕組みで、国民の大半が借家住まいの当時では画期的だった。
ただ、長い歴史の割に同社の事業規模や知名度はパッとしない。旧財閥系不動産4社の売上高を比べると三井不動産2兆6254億円、三菱地所1兆5798億円、住友不動産1兆142億円に対し、東京建物は4637億円(東京建物は24年12月期、他社は25年3月期)。戦後の財閥解体後各社は事業基盤の再構築を迫られたが、三井不動産には江戸英雄、三菱地所には渡辺武次郎、住友不動産には安藤太郎といった押しの強いワンマン経営者が君臨し、高度経済成長時代からバブル期にかけて一気に業容を拡大した。片や東京建物ではこの時期、親会社に当たる富士銀行(1948年に安田銀行から改称)からの「天下り」のOBが相次ぎ社長に就任。銀行の植民地化した会社は活気に乏しかった。また財閥の中核会社だった安田保善社の不動産部門が安田不動産(70年に永楽不動産から改称)に移管され、東京建物に本流意識が希薄だったことも背景にある。因みに、安田不動産では善次郎の玄孫に当たる安田守(59)が2023年から社長を務めている。
東京建物の最大の危機は07~12年。米サブプライムローン問題が引き金となったミニバブル崩壊で巨額の不良資産を抱え込み、11年12月期に最終損益が717億円の赤字に転落。当時の社長が引責辞任した12年春には同社を同じ旧富士銀行系のヒューリックに吸収合併させ「みずほ不動産」を立ち上げるといった観測がメガバンク関係者の間でしきりに囁かれた。
あれから13年余り。東京建物は26年2月、本拠地の東京・八重洲で大規模再開発ビル「TOFROM(トフロム)YAESU」(タワー棟は地上51階建て)を竣工予定。待ちわびた旗艦プロジェクトの誕生で長年の地味なイメージを払拭できるだろうか。(敬称略)