深層スクープ/中国で社員が実刑判決のアステラス/なぜか、中国市場で大躍進の「秘密」

拘束事件ばかり報道されるが、現地法人社長に中国人女性を抜擢。当局の歓心を買う。

2025年10月号 BUSINESS

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アステラス製薬中国(HPより)

スパイ罪で実刑を受けた男性社員が日本に帰国する頃には、アステラス製薬の中国法人は様変わりしているだろう。7月16日、中国北京市の裁判所が、アステラスの社員である西山寛氏にスパイ罪で懲役3年6月の実刑判決を下した。西山氏は控訴せず判決が確定。具体的なスパイ行為は明らかにされず手続きも不透明だが、判決が出たことで2年余りに及ぶ事件は区切りを迎えた。一方、舞台となったアステラスの中国法人では、西山氏が拘束されている間にトップが日本人の濱口洋氏から交代。中国人の美人女性が社長に抜擢され、大躍進を遂げている。

西山氏が中国当局に拘束されたのは2023年3月。当時50歳代後半で、通算20年に及ぶ駐在を終えて帰国する直前に中国国家安全局に拘束された。西山氏は中国法人の総経理特別顧問やシニアアドバイザーとして勤務し、中国に進出する日系企業団体「中国日本商会」の副会長・理事を長く務めた。22年に開催された「日中国交正常化50周年記念事業」では、在中国実行委員会の副会長のひとりとして名簿の上位に掲載されるなど、現地の日本企業の間では知られる存在だった。

西山氏のスパイ容疑ははっきりしない。ただ当時、最も中国が触れられたくなかった新型コロナウイルス感染症に関する情報にアクセスしようとして拘束されたとの見方がもっぱらだ。ベテラン駐在員である西山氏は、製薬企業の社員として中国の薬事規制当局である中国国家薬品監督管理局や厚労省にあたる国家衛生健康委員会と太いパイプがあったという。駐在員の中でも新型コロナでの正確な死亡者数や中国製ワクチンの開発情報に近づける数少ない立場だった。

中国版女性活躍推進の顔

中国版女性活躍の花形でもあるチャオ・ピン氏(同社HPより)

もとより、通常では問題のない行為でも、米国が新型コロナの発生源を武漢ウイルス研究所とする「武漢起源説」を主張し、習近平政権が神経を尖らせている状況では、そのような情報に近づくだけで要注意人物とされたことは想像に難くない。いずれにしろ中国ではスパイ行為の範囲が曖昧で、この事件をきっかけに現地の日本企業の間には不安が広がり、改めてビジネス上のチャイナリスクを知らしめた。

そうとはいえ日本の製薬企業が、米国に次ぐ世界第2位の医薬品市場中国から撤退するようなことはなく、むしろ成長が期待される重要市場とされた。アステラスも同じで、23年11月下旬に西山氏の初公判が始まった頃、水面下で中国法人の人事を調整し、年が明けた24年1月には現地法人の社長に中国人女性のチャオ・ピン氏を据えた。同社は94年に中国に進出し、今年で30周年を迎えるが、チャオ氏は初めての中国人社長となる。大きな戦略転換で、拘束された西山氏の事件に対する中国当局へのけじめにも見えるが、この社長交代は日本では発表されず報じられることもなかった。

現地報道や取材によると、チャオ氏は欧米製薬企業の中国法人を渡り歩いてきたエリート女性だ。91年に名門である同済大学医学部を卒業し、上海市第十病院で産婦人科医として臨床経験を積むと、93年に米製薬大手ブリストル・マイヤーズスクイブ(BMS)の中国法人に入社して製薬業界でのキャリアをスタートした。98年にはイーライリリーの中国法人に移り、新設された腫瘍領域チームのマーケティング部門を担当、さらに08年にはバクスターで日本、中国、北アジアのバイオ医薬品事業のコマーシャル部門の責任者を務めた。

その後もジェンザイムの中国事業のゼネラルマネージャーや、アラガンの中国事業の社長を任された。18年に再びBMSに戻って中国法人の社長に就任すると、世界的ヒット商品であるがん治療薬「オプジーボ」の中国内での展開で実績をあげた。

チャオ氏は中国内の腫瘍領域の新薬でリーダー的な存在と言える。アステラスが彼女を中国法人の社長に抜擢した狙いもここにあるのだろう。アステラスは腫瘍領域を得意とし、主力品である前立腺がん治療薬「イクスタンジ」は25年度の同社売上収益1兆9123億円の約半分を占める。西山氏が拘束された当時、中国では免疫抑制剤「プログラフ」などが主力だったが、イクスタンジに関しても使える疾患への適応を拡大することで増収を計画。さらに新たな抗がん剤の上市も準備しており、中国当局との関係修復が急務だった。

チャオ氏のトップ就任は、中国当局や北京市にも歓迎されたようだ。就任半年もすると、北京市がバックアップする多国籍企業の会議の初代事務局長にチャオ氏は選出された。中国では地方政府が関わる会議の重職には中国共産党の党員が選ばれるのが常とされる。北京市は革新的医薬品の導入を推し進める政策を導入しており、アステラスにとっても追い風だった。

また、チャオ氏は中国版女性活躍推進の顔でもある。BMSの時代から国際女性デーでは製薬業界の女性経営者として紹介され、24年にはアステラス中国の社長としてダイバーシティ関連で女性賞の表彰式にも出席した。日本では西山氏の拘束事件ばかりが報道されるアステラスだが、現地では女性中国人が活躍する日本企業というイメージらしい。

当局が新薬を次々と承認

彼女の就任後、中国当局に新薬が次々と承認された。24年8月に尿路上皮がんの治療薬「パドセブ」の承認を取得、今年6月には胃がん治療薬「ビロイ」の上市に漕ぎつけた。アステラスの目下の課題は、イクスタンジの特許が27年から各国で切れて売上収益が落ちることにある。パドセブとビロイはイクスタンジの穴を埋めるための重点戦略製品で、巨大市場の中国に投入できた成果は大きい。

アステラスの26年3月期の米国での売上収益は1.2%減の8560億円となる見通しで、やや落ち込む。米国ではトランプ政権が製薬業界に対して薬価引き下げの圧力を強めている。今のところ日本の製薬企業に直接的な影響は見られないが、米国の医薬品市場には鈍化の兆しが見られる。

一方、中国市場では25年3月期10.9%増、26年3月期も13.7%増で890億円になると予想。2期連続の2桁成長となる見込み。アステラスは「20年代後半には2000億円の売上げ規模をめざす」と表明しているが、早くも来期には1000億円が視野に入る勢いだ。また、中国では大型品となる更年期障害の治療薬「ベオーザ」の第2相試験も進行中。さらに5月には中国バイオ医薬品企業のエボポイントバイオサイエンシズ社と、がん治療向けの抗体薬物複合体(ADC)のライセンス契約を締結。開発面で中国にネットワークが拡大しつつある。

チャオ氏は積極的に現地の人材を採用し、中国法人の社員数は1000人を超えて拡大している。企業文化の変革を進めて、「中国トップエンプロイヤー」の称号も獲得。売上収益以外でもアステラスの中で存在感が高まりつつある。拘束事件で痛い目を見たアステラスだが、今後は中国市場に依存するというチャイナリスクにも目を向ける必要がありそうだ。

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