「ネオ55年体制」の終わり/SNSが「自民1強」にとどめを刺した/特別寄稿 芹川洋一・コラムニスト

号外速報(11月13日 19:50)

2024年11月号 POLITICS [号外速報]
by 芹川洋一(日本経済新聞社客員編集委員)

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衆院選の期間中に登録数が22万人から30万人に増えた「玉木チャンネル」より

2024年10月の衆院選で自民、公明両党が惨敗、自民党一強の「ネオ55年体制」が終わりを告げた。

野党第一党の立憲民主党だけでなく国民民主党も大きく躍進し、左右両サイドの小政党も議席を伸ばした。政治とカネへの対応で有権者の怒りが背景にあったのはいうまでもないが、国民民主党などには共通するメディア戦略があった。インターネットによる情報伝達である。SNSで情報を拡散、若者世代を中心に支持を広げたからだ。

日本政治では1955年体制というように政治の枠組みが安定していた時期が何度かあった。それがくつがえったときに何があったのか。もちろん政治的な力関係の変化があるわけだが、案外忘れられているものがある。メディアの役割である。

政治体制がくずれるとき、しばしばメディアが決定的な一撃を与えて来た。そんな歴史をふりかえりつつ、政治とメディアの関係を考えた。

「1900年体制」を崩した新聞・雑誌

『憲政の本義』-吉野作造デモクラシー集(中央文庫)

日本の政治で権力の均衡が成立し、大きな波乱がない時期は極めて限られていたことがわかる。もちろん内部では熾烈な権力闘争が繰り広げられていたとしても政治の枠組みが揺らがなかったという意味での政治的な安定期である。

第一は、歴史学者の坂野潤治が「1900年体制」と呼んだ時期だ。

帝国議会の開設から10年後の1900年に立憲政友会が結党、官僚閥の桂太郎と政友会の原敬によって作りあげられた協調体制である。桂と西園寺公望(政友会)が交互に政権を担当する桂園時代がおとずれる。

1912年末の第3次桂内閣の発足で第1次護憲運動がおこった。1900年体制は崩壊に向かう。それをリードしたのが新聞・雑誌だった。「閥族打破、憲政擁護」のキャンペーンを繰りひろげた。

そのための「全国同志記者大会」まで開いた。記者が先頭に立って政治のあり方をかえようとして、直接行動に出たものだった。桂内閣はわずか2カ月で退陣に追い込まれた。とどめを刺したのは新聞・雑誌だった。

当時は活字メディアが世論を形成した時代だ。大正デモクラシーの先鋒となったのは雑誌だった。『中央公論』16年1月号に掲載された吉野作造の「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」が代表例だ。

その流れのなか第2次護憲運動で、護憲3派の加藤高明内閣が24年に誕生、5・15事件で犬養毅内閣が倒れるまでの8年、政友会と民政党による二大政党制が実現した。ただ政党内閣の時代にとどめを刺したのはメディアではなかった。銃弾だった。

この間、ニューメディアとして25年にラジオが登場する。浜口雄幸首相は内閣発足の翌月の29年8月、首相として初のラジオ演説をした。盛り場の街頭ラジオには人だかりができた。もっと巧みにラジオを使い、ブームを起こしたのが近衛文麿だ。37年6月の組閣の夜にはラジオで直接国民に訴えかけた。そして45年8月の玉音放送。ラジオが明治の天皇制国家のおわりを知らせた。

「1995年体制」の舞台を回したテレビ

かつて威を振るったテレビ朝日(東京・六本木の本社/写真 宮嶋巌)

第二は、政治学者の升味準之輔が「1955年体制」と名づけた時期だ。戦後10年間の混乱期をへた55年、自由党と日本保守党の保守合同により自民党が結党、93年まで38年間つづいた自民党長期政権の時代である。

1と2分の1政党制ともいわれた期間だ。自民党の勢力の半分の社会党に、公明、民社、共産の野党各党が連なる政治の枠組みがずっとつづいた。93年の非自民連立の細川護熙政権の誕生で幕を閉じた。

そのとき舞台回しの役割を演じたのがメディアだった。テレビである。テレビと政治をミックスした「テレポリティクス」という言葉が広く流布したのはこのころからだ。

細川政権をつくったのは、アナウンサーの久米宏が進行役をつとめた「ニュースステーション」と、評論家の田原総一朗が総合司会の「サンデープロジェクト」で、「久米・田原連立政権」と言われたほどだ。いずれもテレビ朝日系列の番組だ。

93年の通常国会の会期末、政治改革関連法案の取り扱いをめぐって自民党内が激しく対立していた際、田原がインタビュアーをつとめたテレビ朝日の番組で、宮澤喜一首相が政治改革を必ず実現すると約束した。「私はウソをついたことがない」と言い切った。

ところがうまくいかなかった。食言と受けとめられた。この発言は繰り返し放映された。宮澤が政権の座から降りざる得なくなるきっかけとなった。テレビの怖さをまざまざと見せつけた。テレビが宮澤にとどめを刺した。

逆にテレビをうまくつかったのは小泉純一郎首相である。「自民党をぶっ壊す」「改革なくして成長なし」といった分かりやすい短いことばで訴えかける「ワンフレーズ・ポリティクス」を展開。ワイドショーが盛んに取りあげ、テレビを通じた劇場型政治を繰りひろげた。

「玉木チャンネル」「参政党」「日本保守党」

3議席を獲得した参政党のXより

第三は、境家史郎・東京大教授が命名したのが「ネオ55年体制」である。自民党一強の風景は1と2分の1の55年体制に類似していたからだが、2012年末発足の第2次安倍晋三内閣から24年10月までの12年間つづいた。それが今回ついにおわりを迎えた。

朝日新聞社が投票日に実施した出口調査によると、年代別の比例代表の投票先では20代は国民民主党が26%と自民党の20%を抜いて第1党、30代も21%で自民党と同率1位である。

この世代の情報入手の方法を知る必要がある。40歳から下の世代は、新聞はまず読まない。テレビもあまり見ない。SNSで情報を入手している。新聞やテレビでほとんど取りあげられることのない小政党がなぜ得票を伸ばし、議席を獲得したのかの答えがここにある。SNSの活用だ。

自民、公明両党による少数与党内閣のキャスティングボートをにぎった国民民主党だが、SNS戦略は他の主要政党に比べて一日の長がある。

動画共有サイト「ユーチューブ」での玉木雄一郎代表の「たまきチャンネル」の開設は18年7月。6年間にわたって政策テーマの解説から身辺の話題までこまめに情報を流してきた。内容は若者を意識したものだ。

チャンネル登録者数は衆院選の期間中に22万人から30万人に増えた。選挙公約の「手取りを増やす」を紹介する内容の動画を頻繁に投稿、党のユーチューブ・チャンネルに誘導した。

党のユーチューブ・チャンネルは選挙の街頭演説をライブで配信し、集まった支持者にその一部を編集してユーチューブにアップする「切り抜き動画」を促した。これによりユーチューブ内で国民民主党の動画がどんどん広がりその場にいなかった人々にも拡散された。7月の東京都知事選で石丸伸二候補の陣営が支持を広げたやり方そのものだ。SNS時代の新たな選挙戦術である。

実は前回22年の参院選ですでにこの手法を採っていた政党がある。参政党だ。街頭演説の映像をユーチューブにあげて、それを拡散していくやり方で、当時、同党関連の動画の再生回数が数十万回のものが相次いだ。選挙資金もクラウドファンディングを中心に集めた。約177万票を得て、1議席を獲得した。今回の衆院選もその延長線上で3議席を獲得した。

共産党を抜いて公示前の3倍の9議席に伸ばしたれいわ新選組にしても、議席のなかったなかで3議席を確保した日本保守党にしても、参政党と同じように躍進を解くカギはユーチューブ選挙にある。ネットでの空中戦をつうじて、リアルの投票行動につなげるのに成功したわけだ。

今回、左右両サイドの少数政党が伸びた背景には別の側面もある。石破茂自民党が保守中道に寄り、野田佳彦立憲民主党が中道保守を志向し、ともに中道に動いた結果、左右両サイドでこぼれ落ちる層が出てきた。それをすくい取ったのが急進リベラルのれいわ新選組と、岩盤保守の参政党と日本保守党だった。

ネオ55年体制下の安倍自民党の支持基盤は、今回、国民民主党が吸収した20代・30代の若者世代であり、参政党や日本保守党に流れた保守勢力だった。岸田文雄内閣のころから自民党支持率は以前のように若者より高齢者が高くなり、保守層の自民離れもじわじわ進んでいた。他党がそこを取り込んだ。その有効な道具になったのがSNSだった。SNSがネオ55年体制にとどめを刺したといっても良いはずだ。

「エコーチャンバー」や「フィルターバブル」の懸念

衆院選最終日の東京駅前、玉木代表の「最後の訴え」に集まった大群衆(「玉木チャンネル」より)

新聞・雑誌の活字メディア、テレビ・ラジオの放送メディア、そしてインターネットと新しい媒体があらわれ、有権者への情報伝達と情報操作で政治が動いてきたのは間違いない。政治の枠組みが変動するとき、メディアがそれを突き動かす役割も果たしてきたのは指摘したとおりだ。

ともに中道を志向する自民党と立憲民主党のど真ん中に国民民主党、自民と立民のそれぞれ外側に少数政党が立地する政治状況。2024年の衆院選はそうした新たなかたちをつくった。その結果、何がおこるのか。

1900年体制も55年体制もそうだったように、あとにつづくのは不安定な政治情勢である。次なる政治権力の均衡状態ができるまでにはある程度の時間が必要になる。そこで何が求められるかである。

SNSで情報を入手していると、自分と似たような考え方や好むような情報にばかり触れてしまい思考などが極端化する「エコーチャンバー」や「フィルターバブル」といった現象があらわれる。その先にあるのは不寛容な社会で、政治の対立は先鋭化し、まとめていく統合機能が弱くなる。

SNSがひとつの時代に転機をもたらし、今後も大きな役割を果たしていくとすれば、それぞれがSNSの特性を知って他のメディアで情報をチェックしながら、極端や排他的に流れないよう努力するしかあるまい。

著者プロフィール
芹川洋一

芹川洋一(せりかわよういち)

日本経済新聞社客員編集委員

東京大学法学部卒・新聞研究所修了。日本経済新聞社で政治部長、論説委員長、論説フェローなどを歴任。東海大学客員教授。2019年度日本記者クラブ賞受賞。本稿では共著の『メディアと政治』(有斐閣)『政治を動かすメディア』(東京大学出版会)を参考にしている。

   

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