源氏物語を「楽しみ尽くす」方法/千年経っても新しい「奇跡の文学」/半世紀の愛好家・柳辰哉

2023年12月号 LIFE [読まなきゃもったいない!]
by 柳 辰哉(半世紀の愛好家)

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2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』平安神宮での撮影開始

皆さんは、『源氏物語』についてどんなイメージをお持ちですか。貴公子の華麗な恋愛遍歴という印象が強いでしょうか。本誌の読者の皆さんも、忙しくて今さらちょっと、と感じる方が多いかもしれませんが、こんなに奥の深い「世界最古の本格小説」を楽しまないのはもったいないことです。年明けに始まる二〇二四年のNHK大河ドラマ『光る君へ』は主人公が紫式部で、源氏物語に親しむ好い機会です。私が趣味で五十年近くこの物語を愛読していることを知った本誌編集部から、専門家ではない「半世紀の愛好家」の視点で源氏物語について書いてほしいという依頼を受け、自分の体験から多彩な楽しみ方を提案することにしました。

源氏物語は、およそ千年前に宮中に仕えた紫式部によって書かれたとされます。印刷技術のない時代から現代まで受け継がれているのは驚くべきことで、絶えず親しまれてきた証拠と言えます。平成の時代に出た瀬戸内寂聴氏の現代語訳が四百万部を超えるミリオンセラーになりましたし、大和和紀氏の漫画『あさきゆめみし』は千八百万部売れて、海外版もアメリカ・韓国・台湾・インドネシアで刊行されました。源氏物語の拡がりに二人の貢献が特に大きいことは異論がないと思います。日本国内だけでなく、一九二〇年代からこれまでに、伊藤鉃也氏の研究によると世界の四十三の言語で翻訳され、広く読まれています。ノーベル文学賞が当時もあったとしたら紫式部は最有力候補でしょう。

出会いは高二の秋に「与謝野晶子訳」

今回、三十代から七十代の六十五人の知人にアンケートをした結果、源氏物語に何らかの形で接したことがある人は六割余りに達し、その人気を再認識しました。読んだことがない人が挙げた理由は「長くてとっつきにくい」「何を読んだらよいかわからない」が多く、「授業がおもしろくなかった」という回答もめだちました。高校の教科書に載る源氏物語は生徒をわくわくさせる場面ではないようですが、現役の古文の先生に取材したところ、生徒は恋愛に興味があり、教科書に載らない源氏物語の値打ちをていねいに講義すると関心を持つ生徒が多いとのことでした。

源氏物語の長さは、たとえば二〇二〇年に完結した角田光代氏の現代語訳(河出書房新社・日本文学全集版)ですと計二千ページ近い長編ですが、読み方は自由で、見せ場だけを現代語訳で部分読みするなら通勤途中でも上質の短編小説のように楽しめます。

では、なぜ源氏物語が最高峰の文学なのでしょうか。

千年色あせない最大の力は、人間や人生の描き方のリアリティーだと思います。王朝貴族のごく狭い社会のフィクションなのに、登場人物の心理や会話、あるいは人生の転変は今とほとんど変わっていないことが多いと感じます。物語には四百人を超える人物が登場しますが、その多くが個性的でまるで実在したかのように心に残ります。恋愛の成就や主人公の栄華だけでなく、挫折や老い、男女のすれ違いや別れ、罪の意識、政治抗争などが迫真的に描かれています。光源氏が天皇の愛する后(藤壺の宮)と密通して周囲が知らぬままその不義の子が即位したり、皇室出身の光源氏が権力争いで藤原氏一族を制して頂点に昇りつめたりするストーリーを、書かれた当時の一条天皇や藤原道長が読んだと考えられるわけですから、ある意味でリベラルな時代でした。

私が源氏物語に初めて触れたのは、与謝野晶子訳を二、三か月かけて読んだ高校二年の秋でした。当時おもしろかったのは、物語前半の光源氏の相次ぐ恋や、天皇の寵愛を受けていた朧(おぼろ)月夜(づきよの)尚(ないし)侍(のかみ)との情事発覚により都落ちした隠遁生活、その後の復権など、劇的に展開するストーリーでした。日本語の美しさにも惹かれました。たとえば、光源氏の気持ちが冷えていた年上の愛人・との別れの場面で、秋の風景をつづった次のような文章です。「10 賢木」の帖から山岸徳平氏校注の岩波文庫版で引用します。(帖名の上の算用数字は五十四ある源氏物語の帖の番号です)

【はるけき野辺を、わけ入り給ふより、いと物あはれなり。秋の花、みな衰へつゝ、浅茅(あさぢ)が原も、かれ〴〵なる虫の音(ね)に、松風すごく吹き合はせて、そのこととも、聞きわかれぬ程に、物の音(ね)ども、たえ〴〵聞えたる、いと艶なり。】

源氏物語『賢木』 室町時代後期の写本大正大学蔵

「おじさんはもうダメ」と徐々に気づかせる

『源氏物語画帖 葵』 国文学研究資料館所蔵 

次にこの物語に熱中したのは四十代でした。瀬戸内氏の現代語訳を読み、古語辞典をひきながら原文にも挑戦しました。このころ感動したのは、中高年になった光源氏の衰えと運命の暗転です。最愛の妻だった紫の上との深まるすれ違い、自らの密通からおよそ三十年経って今度は若き正妻の女三の宮が青年貴族の柏木との子を産んでしまうという因果応報の事件など、物語の山場を読んで虜になりました。女性の作者がなぜ、登場人物の男性心理をここまで現実感をもって描けるのかにも驚嘆しました。

三度目に源氏物語に深く親しんでいるのは六十代の今です。年齢を重ねて読むと新たな発見があると、アンケートで多くの知人が答えていて、私もそうです。たとえば「5 若紫」に書かれた次のような夫婦の会話です。会話部分は瀬戸内氏の訳(講談社)を抜粋します。

【光源氏と正妻だった葵(あおい)の上との間は温かい交流がありませんでした。久しぶりに会って光源氏が「時々は世間の妻のような、やさしい態度も見せてほしいですね」と言うと、葵の上は「〈訪(と)はぬはつらきもの〉という歌のような気持でございましょうかしら」とだけ答えます。】

これについては古い和歌「君をいかで思はむ人に忘らせてとはぬはつらきものと知らせむ」の一節を葵の上が引用したという解釈があります。和歌の意味は「冷たいあなたが愛する女性に、あなたを忘れさせることによって、訪ねてくれないことがどんなに悲しいものかという私の気持ちをあなたに思い知らせたい」という意味でしょうか。別の和歌の引用だとする説や、引用ではなく慣用表現だという説もありますが、私は、ほかの女性たちに熱中する夫に対し、葵の上が切ない心情を和歌で精一杯伝えたと読みたいと思います。

もう一か所、描き方が巧みな場面を紹介しましょう。三十代半ばになった光源氏は若き日に短いあいだ愛人だった夕顔の娘の玉(たま)鬘(かずら)を引き取り、親代わりのはずが次第に男としての恋愛感情を抑えられなくなります。「24 胡蝶」から、林望氏の訳(『謹訳 源氏物語』祥伝社)で光源氏の口説き文句の一部を引用します。

【「もともと、あの心から愛していた母君の形見として、そなたにも決して浅からぬ思い

を抱いていたのだが、今はもうそれだけではない。こうして新たな思い人としての恋心が重なっているのだから、もう世にたぐいもない恋慕の思いなのだ」】

手を取ったり添い寝までしたりして迫る光源氏を玉鬘は賢くいなし、結局男女の関係にはならずに別の男性と結婚します。もう若くない光源氏の様子について国文学者の山本淳子氏は、読者に「おじさんはもうダメ」と徐々に気づかせる効果があると指摘しています。(林真理子氏との対談を収録した『誰も教えてくれなかった「源氏物語」本当の面白さ』 小学館101新書より)

しかも光源氏は「セクハラ」とも言うべき行為と並行して玉鬘に対し、求婚してくる他の貴公子たちの人物評をくどくどと繰り広げて相手選びの指南をします。こうした光源氏の言動について小説家の奥山氏は、近著の『フェミニスト紫式部の生活と意見』(集英社)の中で、中高年の男が上から目線で女性に評価や説教をするという意味の「マンスプレイニング」という新語で説明しています。こんな新しい読み方もできる文学作品です。

さっそく源氏物語関連の本を読みたい方に、数ある書籍の一部を紹介します。

▽通しで名場面を読みたい場合は、瀬戸内氏の現代語訳を五百ページほどの一冊に再編集した『寂聴 源氏物語』(講談社)が十一月に刊行されました。

▽知識をまとめて得たい方は、新刊では買えませんが今井源衛氏の『源氏物語への招待』

(小学館ライブラリー)が本格的な内容ながら読みやすくお薦めです。

▽摂関時代の歴史や政治的背景から読むなら、倉本一宏氏の『藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』(文春新書)や『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)が参考になります。同じ倉本氏の『紫式部と平安の都』(吉川弘文館)は、作者の一生がわかるだけでなく、ゆかりの地や物語の舞台を訪ねる旅にも役立ちます。

▽小説で紫式部の人生をたどるなら杉本苑子氏の「散華(上・下)」(中公文庫)が名著です。特に下巻には、源氏物語を執筆する式部の気持ちが鮮やかに記されています。

一方、東京国立博物館では国宝『源氏物語絵巻』を鑑賞できる「やまと絵」特別展が、十二月三日まで開かれています。また、日本文学の研究機関の国文学研究資料館のホームページでは、『源氏物語画帖』という江戸時代に描かれたと見られる絵が公開されています。これらの絵から平安時代の建物内などの様子がわかり、源氏物語の様々な場面をリアルに思い浮かべやすくなります。

『光る君へ』脚本はラブストーリーの名手

一月から放送されるNHK大河ドラマ『光る君へ』の主役は吉高(よしたか)由里子さん、紫式部の人生に大きな影響を与える藤原道長役は柄本(えもと)佑(たすく)さんです。制作統括の内田ゆきチーフプロデューサーは「歴史上の人物から女性の主人公を探し、千年残るベストセラーを創った紫式部の人生を描くドラマに挑戦することにしました。道長との関係に時に突き動かされ、時にじっと思いを秘めながら人生をつかみとっていく主人公にご期待ください」と話しています。脚本はラブストーリーの名手の大石静さんで、源氏物語が書かれた経緯を含め、紫式部と道長が互いに影響し合う展開が楽しみです。

この連載、次号からは源氏物語の現代語訳や原文の具体的な楽しみ方を提案するほか、紫式部がなぜ天才作家たりえたのかについても推理します。どうぞお楽しみに。

著者プロフィール
柳 辰哉

柳 辰哉

半世紀の愛好家

1957年生まれ、東大法学部卒。NHKで記者として主に裁判取材を担当、社会部長・首都圏センター長・総務局長を経て退職。国際医療福祉大学に転職し医学部新設に携わったほかキャンパス・附属病院の事務責任者を務めた。現職はフリー校正者。源氏物語・和歌など古典文学を50年間愛好。

   

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