藤沢武夫<下>

経営を担ったのは私

2007年10月号 連載 [第二の男]

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藤沢が手形を落とせない悪夢にうなされ、血の小便を出した1954(昭和29)年の危機は克服された。これを契機に本田技研工業は、いわば本田宗一郎の個人商店から近代企業に脱皮していく。労働組合の結成は、必然の流れだった。藤沢は本田に言った。「社長は技術者だ。今まで通り、割り切ることを続けてほしい。労働問題は完全に割り切れるものではないらしい。それはおれが受け持とう」本田が九州に出張中に組合は出来た。羽田空港に戻って「どうだ」と藤沢に聞いた。「こういうわけですばらしい組合ですよ」「わかった」。本田はポロポロ涙を流し始めた。暮れの越年手当の回答は、一律5千円しか出せなかった。藤沢は1600人を前に一人で説得した。「問題にならない低い額だ。しかし、もしもう少し出せたとしても、あとで会社がつぶれたときに、なぜあのとき頑張らなかったかと追及されるとすれば、経営者 ………

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