大林組の「黒歴史」を糊塗/大屋根リング「後世に残す200m」に異議あり

肝心のクサビを省いた北東工区は「ワサビの抜けた寿司」も同然だ。大林組の「黒歴史」を糊塗することになる。

2025年10月号 BUSINESS

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万博会場のシンボル「大屋根リング」(日本国際博覧会協会HPより)

日本国際博覧会(大阪・関西万博)のシンボルである大屋根リングについて閉幕後もその一部を残す方針が固まった。原形に近く、一般の人が上れるような状態で残すという。大屋根リングは3つの工区に別れている。日本国際博覧会協会(万博協会)の検討会は北東工区200mと南東工区350mを候補に挙げたが、大阪府・市は北東工区に絞り込み、今秋にも事業者を公募する。改修費は最大76億円で、10年間の維持管理に16億円かかると試算した。だが府・市によるこの選定を疑問視する声が建設業界で浮上している。

「西日本の談合」総元締め

世界最大の木造建築物として今年3月、ギネス世界記録に認定された大屋根リングは全周約2025mで、内径約615m、外径約675m、高さは外側が約20mで、内側は約12m。幅約30mでドーナツ状の建築面積は約6万1000㎡あり、甲子園球場の1.5倍超に相当する。大屋根リングの会場デザインプロデューサーで建築家の藤本壮介氏は「世界が分断の危機にあることなどから、世界の多様性を一つにつなぐ」というコンセプトを巨大なリングに託した。

もう一つ狙ったのが日本古来の伝統的建築技術である「貫工法」の継承だ。木材は高温多湿の国情に適した建築資材であり、貫工法はその日本で独自に発達した木造建築テクニックの一つだ。京都の世界遺産、清水寺の「清水の舞台」にも使われ、両側に立つ柱に四角い穴を開け、同じく四角に成形した太い梁(はり)を水平方向に通し、クサビで固定する。クギは使わない。

古来のやり方だけでは現在の耐震性能を確保できないため、柱や梁には高強度の集成材を採用した。さらに接合部を金属パーツで補強しているが、実は3工区でやり方が異なる。「北東工区」は大林組・大鉄工業・TSUCHIYA共同企業体(JV)が請け負い、「南東工区」は清水建設・東急建設・村本建設・青木あすなろ建設JV、「西工区」は竹中工務店・南海辰村建設・竹中土木JVが担当した。

各JVを率いる大林組、清水建設、竹中工務店はいずれも超大手のスーパーゼネコン。清水建設と竹中工務店が神社仏閣を手掛ける宮大工の流れを汲んでいるのに対し、大林組は請負業から土木工事に参入した会社で、成り立ちが異なる。

清水建設の初代、清水喜助は1783年に越中国黒瀬谷村字小羽(現在の富山市小羽)で生まれた。彫刻が得意で幼い頃に家屋改修で出た大黒柱の切れ端で見事な大黒天を彫ったという。社史『清水建設百五十年』は江戸に向かう途中の喜助が11代将軍・徳川家斉の命じた日光山東照宮の大修理に従事したと記す。彫刻の腕が認められてのことだった。喜助は1804年に江戸・神田鍛治町で大工業を始めた。1838年、喜助は焼失した江戸城西丸の再建工事に携わり、この仕事を通じて諸大名家から認められ、格式を備えた宮大工となった。

1月4日の仕事始めには「手斧(ちょうな)始め」という儀式がある。古式ゆかしい装束に身を包んだ職人が手斧で材木を加工する。全国十数カ所の神社でも正月の催事として行われているが、民間で続けているのは清水建設と大阪の金剛組ぐらいだ。

竹中工務店の始祖、竹中藤兵衛正高は織田家の普請奉行で800石を得ていた。織田信長の死後も愛知県北西部の清洲に本拠を構え、1600年頃に刀を捨て、名古屋を拠点に神社仏閣の造営に従事するようになった。宮大工が一家を構えるのは流派が必要で「大隅流」を掲げた。

徳川家康は名古屋城築城に備えて清洲の町をまるごと名古屋へ引っ越す「清須越し」を命じた。藤兵衛は既に名古屋で仕事をしていたが、「清須越し」の始まった1610年を竹中工務店は創業年と定めている。明治初期に名古屋城の修理があり、見つかった古材には「御天主竹中」と彫り込まれていた。藤兵衛は名古屋城天守閣の造営に携わったとみられる。

一方、大林組を興した大林芳五郎は、優雅な伝承が残る清水建設や竹中工務店の創始者とは対照的な逸話の持ち主。1864年に大阪靱永代浜(現在の大阪市西区靱公園)にある乾物問屋の3男に生まれ、呉服商の麹屋で奉公した。独立して呉服商を始めるが早々に行き詰まり、土木建築請負業を志して83年、東京に向かう。知人の紹介で宮内省出入りの請負業者、砂崎庄次郎に師事し、皇居造営工事や東海道線と東北本線をつなぐ鉄道工事、名古屋師団豊橋分営の兵舎工事などに従事した。

帰阪した芳五郎は、大阪と奈良の府県境にある旧大阪鉄道の亀瀬隧道(かめのせずいどう)の工事監督にあたった。工区を巡る激しい境界争いがこじれ、芳五郎は丹波源という親方から決闘状を送られた。芳五郎は麹屋の番頭時代に知り合った侠客の木屋市親分(野口栄次郎)のバックアップも得て手打ちに持ち込んだ。芳五郎は木屋市を介して伝法の「伊之助」、幸町の「淡熊」、梅田の「難波福」、九条の「永福」、新町の「小常」など多くの顔役とも交友を結んだ。

1892年、芳五郎は大林組を創業した。『大林芳五郎伝』は創業当時を「いまだ同業者間に『談合』『談合取』『縄張』等の悪弊が根強くはびこっていた」と記し、芳五郎は「その旗揚げと同時に敢然としてこれらの悪弊打破を叫び、殺伐極まる彼ら請負業者を相手として戦いを宣し、(中略)堅牢不抜の堅陣を(中略)大阪随一の顔役、木屋市野口親分の手を借りて築き上げた」と書いている。

だがミイラ取りがミイラになった。1970年代から関西談合を仕切っていたのは大林組の平島栄常務(後に西松建設)。次は日沖九功顧問がその座を占めた。中国地方は峰久一市常務、名古屋は柴田政宏元顧問が談合組織を差配した。

現在は浄化されたとはいえ、西日本の談合はかつて大林組一色。「いのち輝く未来社会のデザイン」がテーマの大阪・関西万博に、大林組の「ダークサイド」はそぐわない。

貫工法の日本的な趣なし

接合部を金属プレートとボルトで補強した大林組JV施工の大屋根リング(大林組HPより)

さて、大屋根リングの組み立てに用いた貫工法だ。清水建設JVはLVL(ラミネイティッド・ベニア・ランバー=単板積層材)で作ったクサビを打ち込み、耐震強度を確保するため引きボルトで締め付けて固定した。LVLはベニアレース又はスライサーと呼ばれる機械で、丸太を切削して厚さ2~4mmの薄板にし、繊維方向を揃えて重ね、接着して製造する。よくあるベニア板は積層接着する際に薄板の繊維方向を90度ずつ変えて重ねている点が異なる。

竹中工務店JVは鉄製クサビを使用し、古建築のようにクサビのみが見える仕上げにこだわった。梁が柱にめり込まぬよう、四角い穴の底面に金属プレートを入れ、さらにボルトやピンで強化しているが外からは見えない。

一方、大林組JVはクサビを使わなかった。あらかじめ工場で梁に埋め込んだボルトと、開口部に取り付けた金属プレートでクサビ機能を代替する。ボルトを締めると突っ張り棒の原理で柱と梁が固定できる。接合部は無骨な金属製パーツがむき出しで、貫工法の日本的な趣はない。

永井靖二大林組副社長は関西経済同友会の代表幹事を務めており、毎月の記者会見で大阪・関西万博の建設工事が遅れていることをずっと責め立てられていた。大屋根リングの工事では見栄えや伝統技能継承よりも工期最優先で臨んだフシがある。

大屋根リングの「貫工法」を大阪・関西万博の技術的レガシーとして後世に引き継ぐのなら清水建設JVの南東工区350mこそがふさわしい。肝心のクサビを省いた北東工区200mでは「ワサビの抜けた寿司」だ。単なる大林組のレガシーに成り下がり、その「黒歴史」を糊塗する役目しか果たせないだろう。

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