2025年8月号
LIFE
[病める世相の心療内科]
by
遠山高史
(精神科医)
絵/浅野照子 (詩画家)
人間の精神は3つの要素で成り立っている。たとえば人を殺してはならない、など無条件で植え付けられた倫理、道徳といった要素は「超自我」がつかさどる。次に、怒り、悲しみといった感情や、自然の中で生き抜くための攻撃性や性欲など、混沌とした生命活動を包含しているものを「イド(エス)」という。イドはエネルギーの源泉で、生命活動の基本ともいえるが、超自我はその発現を抑圧規制するように働く。しかし、抑圧規制だけでは状況の変化に対応できない。状況との調和を図りながら、超自我に抵触しないようにイドの活動を発現させるのが「自我」である。自我は、年齢を重ねながらの体験的積み重ねによってのみ強化される。これがフロイトが確立した精神分析的な心の3構造である。
ざっくりいえば、イドがアクセルなら、超自我がブレーキ、自我がハンドルである。この3つがバランスよく保たれている人を成熟した大人というのである。しかし、昨今、3つのバランスがおかしくなっているような気がする。
超自我は主として幼少期からの親の躾、教育を通して培われ、その後の生活の中でも修飾を受ける。その超自我が強すぎて、イドを過剰に圧迫すると、ブレーキとアクセルを同時に踏みこむようなことと似て、エンジンが熱くなり、不安を喚起しさまざまな精神疾患の原因ともなると考えられている。
精神の病気は基本的に一度成熟したのち、生きるうえでの困難に遭遇して、破綻ないし、破綻しかかる状態と定義される。外目にはエンジンが激しく回っているのに、一向に車は進まず、ハンドルたる自我が手をこまねいているような現象である。
しかし、昨今の症状は、従来の定義とは重ならず、成熟の遅れが背景にありそうな振る舞いをする人々が多い。かつての日本人と比べて、超自我の抑えが弱く、イドが突出しやすくなっているが、肝心の自我が未熟のままに留まり、イドを制御できなくなっているように思えるのだ。
この傾向は、衝動の制御が未熟な幼児によくみられる、ナルシスティックな心性に近い。些細なことで不登校になったり、他者と折り合えず転職を繰り返すのもこれに当てはまる。さらに、自分が好きなら相手も自分が好きなはずだと決めつけるストーカー行為や、不平不満を何でも人のせいだと思い込み、通り魔を正当化する心理も、成熟の遅れが関与しているように思える。教え子の裸の写真をネットでこっそり回し見る高学歴の教員たちも、倫理をつかさどる超自我が未熟で、真の成熟には至っていないのだろう。
そもそもネットには確たる超自我的機能は見当たらない。あるのは、容易に振り回されやすい、未熟な自我が、事の良し悪しを無視してイドの要求をネット上で実現させる機能である。ネットは、高機能で高燃費で便利な離散的な社会を飲み込み、ひたすら人々のナルチシズムを肥大化させている。イドに満ち、混沌としたカオス的世界に、人は飲み込まれているのが実態である。
ネットに飲み込まれた世界で、教育による克服はもはや有効ではないだろう。幼少期からのリアルな対人関係の積み重ねが唯一、有効である。そのためには一定のコミュニティ参加と、五感を使った身体運動を伴う体験学習が必要である。精神構造が希薄とされる人間以外の動物でも、そうやって成熟してゆく。人間も例外ではないのだ。