アテネ五輪のベンチには長嶋監督のユニホームと「長嶋JAPAN」と印刷された日の丸……。
2025年7月号
LIFE
by
三山秀昭
(元巨人軍代表)
アテネ五輪の日本代表のベンチの写真を掲げ、<長嶋茂雄監督が命懸けで背負った「日の丸」>のタイトルで、長嶋さんの死を悼む読売新聞(6月3日)
目の前に「宝物」のサインボールを置いてこの原稿を書いている。
「2000 NIPPON SERIES OFFICIAL BALL」の刻印がある。そこに「2000・10—28 優勝 長嶋茂雄 3」とサインもある。20世紀最後の年、ON日本シリーズ決戦が実現した。長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと王貞治率いる福岡ダイエーホークスの夢の対決だった。私は10月28日の第6戦を東京ドームで観戦していた。ファウルボールが私の席に飛んで来て、運よくそれを拾うことができた。その日、長嶋ジャイアンツは日本一に輝いた。
長嶋さんは2日後、「日本一」の報告のため読売新聞本社に渡邉恒雄・巨人軍オーナーを訪ねた。当時私は秘書役だった。彼はいつもそうだった。約束の時間の30分前に到着、身だしなみを整え、オーナーとの面談に備える。その日、オーナーは前のお客との面談中で、私が控室で長嶋さんのお相手をした。2日前に手にしたファウルボールを見せて「日本一の記念にサイン頂けますか」とお願いした。「ああ、いいですよ」とサインペンを走らせてくれた。あれから25年の時が流れた。そして「ミスター」は逝った。
「国民的英雄」の死にメディアは大特集を組んだ。新聞はどこも一面、社説、コラム、特集で報じた。「号外」も発行された。テレビは秘蔵映像を流して偲んだ。米紙ニューヨークタイムズまでが「Mr.baseball NAGASHIMA」を戦後日本の歩みと掛け合わせて報じた。多くの評伝、解説、哀悼の言葉が語られた。一人の民間人の死の報道としては前代未聞と言うしかない。「FACTA」の宮嶋巌編集長から「一般に報じられない角度で長嶋茂雄を書いてほしい」と依頼された。私が実体験した「ミスター」を綴る。
2004年3月4日、長嶋茂雄は病魔に倒れた。午前9時に迎えの運転手が長嶋さんの自宅前に到着した。ゆとりを持っての迎えだった。しかし、長嶋さんはなかなか玄関に出てこない。この頃、長嶋さんはジャイアンツの監督を勇退しており、夏のアテネ五輪の「JAPAN」監督の立場で、日程は不規則だった。どれだけ待っても姿を見せない長嶋さんに運転手は不安を感じ、11時に長嶋邸に入った。
寝室のベッド脇で長嶋さんが倒れていた。当時、亜希子夫人は別の場所で病気療養中、長嶋さんは独り暮らしだった。運転手は長嶋さんを担ぎ、車に乗せ、掛かりつけの東京女子医大病院に運び込んだ。
「脳梗塞」との診断、かなり危険な状態で、緊急手術となった。何とか一命は取りとめたが、左脳が梗塞、言語機能障害と右半身に麻痺が残った。当時、私はジャイアンツの球団代表、長嶋さんは終身名誉監督なので、広報対応などは巨人軍の広報部が仕切ることになった。
実は私は長嶋さんが病魔に襲われる2日前に二人だけで話し込んでいる。3月2日夕、都内のホテルで「燦燦会」が開かれていた。巨人軍を応援する経済人の集まりで、1993年に長嶋さんが二度目の監督に就任する際に結成された会。渡邉オーナーから「何かよい会の名前を考えよ」と命じられ、当時の長嶋監督の背番号が33と決まっていたので、「燦燦会」を提案した。オーナーは「少し難しい字だな」との反応だったが、「背番号33に繋がるし、太陽が燦々と輝くのは長嶋さんらしいのでは」と説明すると「よし、それでよい」と決まった経緯があった。
04年の燦燦会では長嶋さんは前監督として挨拶した。独特のカタカナを多用する愉快な「長嶋語」のスピーチだった。ただ、会の終わるころ、長嶋さんが私に声を掛けて来た。「実は困ったことがあります」と深刻な表情、控室で二人だけで話し込むことに。
「三山さん、アテネ五輪には各球団二人ずつ選手を出してもらうのはご存じですね」
「もちろんです。私も実行委員会のメンバーですから。各球団は全面協力することになっていますが」
「ところがセ・リーグのA球団(長嶋さんは実名を挙げた)が非協力的で私が希望する選手を出してくれません。三山さんが実行委員会で問題提起してくれませんかね」
「わかりました、早速、動きます」
アテネ五輪ではそれまでのアマ中心ではなく、プロ選手で最強チームを編成し、金メダルを目指していた。ただ、五輪の開催時期がプロ野球の公式戦の最中で、有力選手を五輪に出すと公式戦の戦力ダウンになるため、「各球団2人」という縛りを掛けていた。それでもA球団は長嶋さんが希望する選手を出してくれないというのだ。
巨人はエースの上原浩治と4番の高橋由伸、広島カープもエースの黒田博樹と足が速くマルチプレーヤーの木村拓也、ダイエーも和田毅投手と城島健司捕手、西武もエース松坂大輔と和田一浩外野手……と全面協力だった。しかし、A球団は「公式戦優先」に拘ったのだ。
私は巨人軍の球団代表になる前から、読売新聞の秘書部長、秘書役として、長嶋さんと渡邉オーナーの連絡役をしていたので、長嶋さんとは何度も話したり、会食も重ねている仲だった。いつも明るく、愉快な、それでいて律儀な長嶋さんだったが、この時ほど憔悴、困憊し切った姿は見たことがなかった。それから30数時間後、長嶋さんは病魔に倒れてしまった。もちろん、医学的因果関係は私にはわからない。しかし、専門医は「脳梗塞や心筋梗塞は継続的な心労、極度のストレスが発症の引き金になることがある」と解説してくれた。「ユニホームに日の丸を付けて五輪に参加するのは、かつてない興奮と使命の重さを感じる」と語っていた長嶋さんにプレッシャーが覆いかぶさっていたことも一因なのかもしれない。
長嶋さんは手術から5日後にはリハビリを開始した。「何が何でもアテネに行くんだ」との強い信念からだった。しかし、長嶋さんに言葉が不自由で右半身に麻痺が残ることが伝わると、球界やスポーツ紙では「新しい五輪監督選び」の話が広がり始めた。その下馬評の一人に選手供出に消極的だった球団の監督経験者も取り沙汰された。これに憤ったのが長嶋さんの長男一茂さん。読売新聞社に渡邉オーナーを訪ねた。「父は『アテネに行くんだ』と猛烈にリハビリに励んでいます。そんな時に早々と次期監督の話ですか。父がこのことを知ったらどんなにショックを受けるでしょう」と直訴に及んだ。
一茂さんは「オーナーに二人で会ったのはあの一回きり」と話している。渡邉オーナーはすぐに根來泰周コミッショナーに電話で事情を話し①五輪は「長嶋監督」のままで行く②万一、彼がアテネへ行けない場合も「中畑清ヘッドが指揮をとる」ことが決まった。
しかし、懸命のリハビリにもかかわらず、担当医は「アテネに行くことは無理」と言い、長嶋さんは涙を流して「行く」と訴えたが、最終的には断念した。アテネ五輪の日本チームベンチには長嶋監督のユニホームと、「長嶋JAPAN」と印刷され、長嶋さんが左手で「3」と書き込んだ日の丸が掲げられた。日本は銅メダルだった。
「長嶋茂雄は野球の星に還りました」(一茂さん)。しかし、「4番サード長嶋 背番号3」。あのアナウンスは今でも耳に残る。「燃える男」「メークドラマ」「天覧試合」「スーパーヒーロー」「永久に不滅です」……。
長嶋さん、あなたへの形容詞、修飾語は数え切れません。あなたの背番号は選手時代の3、監督になっての90、二度目の監督の33、そして永久欠番の3への復帰。そして身体の不自由さを隠そうとしなかった勇気ある姿。私たちにとって「あなたの記憶も永久に不滅です」。合掌。