阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2018年10月 1日 [reuters]初心忘れた「新潮45」の落とし前

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LGBTを巡る記事が批判を浴びていた月刊誌「新潮45」が休刊となった。この問題がここまで大きくなってしまったのは、この月刊誌を出版していたのが名門出版社の新潮社であり、期待されていた"格"に誌面の質が伴わなくなっていったことが大きい。ソニーやパナソニックが大人のおもちゃを作るようなものだ。しかしこの事件が突きつける問題は差別や出版の品格にとどまらないのではないか。

新潮45は同じ月刊誌の文藝春秋の陰に隠れていたが、もともとは社会問題や事件に対する論考や政治哲学、紀行文、評伝、対談など、ノンフィクションを中心に幅広いテーマを扱う総合誌だった。が、しだいに際物狙いのゲテモノ雑誌化した。取材が甘いのに、見出しだけ踊る空疎な暴露に走る傾向はこの出版社の隠れた病根である。

それでも売れ行き不振で、今度は「右」なら売れるだろうと妙な具合に右傾化して二番煎じ的なオピニオン誌と化したのは1年半ほど前からだっただろうか。週刊新潮がすでに「右」の牙城なのに、新潮45の右路線は共食い以外の何ものでもない。すでにこの雑誌の命脈は尽き、経営者も休刊のタイミングをうかがっていたのではないか。

新潮社に勤める知人に聞くと、編集者によっては右傾化する誌面をまずいと感じていたのか、執筆陣に「この雑誌の編集方針が変わったら、また......」と詫びながら説明していたと聞くから、雑誌の方向性を巡って編集部内でも編集長と編集者の間に溝が生まれていたようだ。焦りから極端に走り、墓穴を掘ったのだろう。

立ち止まってよく考えてみると、LGBTに関する記事が差別的で論考と呼ぶに値しない内容だったことと、同誌が極端に右傾化していたことは本来、別の問題だろう。しかしこの2つがごく自然に結び付けられて論じられ、新潮社前でちょっとしたデモが起きたり、執筆陣や書店、読者を巻き込んで反発が広がってしまったのは、新潮45の一連の記事が安倍晋三首相のシンパやお友だちと目されている執筆陣によるものであることと無関係ではあるまい。新潮45の炎上や世間の反発は、性的マイノリティに対する差別問題に見えて、実際にはそれに言寄せた政権批判ではなかったか。

そして炎上させた張本人の杉田水脈議員は一切の釈明もないまま行方をくらましている。彼女の論自体も是非を論ずる以前に、人騒がせの自己顕示欲丸出しだった。まもなく秋の通常国会が開かれるから、いつまでも頬っ被りはできないだろう。

もうひとつ気になるのは、長引く雑誌不況が出版社を蝕み、売らんかなの前に「経営と編集の分離」が有名無実になっていることだ。企業経営でいう「経営と所有の分離」に通じていて、株主として会社を所有する立場の者であっても、日々の業務に口を挟まないというこの原則は、経営陣の信任を得た編集者が日々の編集業務を受け持ち、経営陣は容喙しないという建前だが、とうに置き去りになっている。

新潮社は謝罪して頭を下げればいいというものではない。新潮45を堕落させたのは何だったのか、どの経営幹部がこの編集長を起用し、この編集方針にゴーサインをあたえたのか。ポスト・トゥルースを追及すべき雑誌自体が、ポスト・トゥルースに堕した責任はこの程度でいいのか。新潮45の休刊に溜飲を下げている人びともまた、活字メディアの弱体化に力を貸していることを自覚していない。

当たり前の話をするようだが、出版社の編集担当者たちの多くは書痴と言っていいほどの大変な読み手でもある。知識や見識を持ち、雑誌の編集者ともなれば、取材の現場で様々な経験も積んできたはずだ。部数減から来る焦りがあったにせよ、あのお粗末な誌面とがどうにも結びつかない。目が肥えているはずの編集者たちから、今こそ生の声を聞きたい。あなたがたは、いつ、どこで初心を忘れ、売らんかなの奴(やっこ)になり下がったのか、と。