阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2013年10月22日 [書評]畏友タニトモさんの『市に虎声あらん』書評

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『市(まち)に虎声(こせい)あらん』フィリップ・K・ディック著、阿部重夫訳
『市に虎声あらん』
平凡社、2013年8月、550ページ

本書が一見手を出しにくい難物みたいに見えたとしたら、多分に訳者の衒学趣味からついた題名(「市に虎声あらん」)のせいだ。原題Voices from the Streetを、例えば「あの街路、その声、また声」くらいに訳しておいて、「いま甦る伝説の青春小説」とでも惹句を腰巻に振っておけば、高等学校の司書たちが、新着図書へ加えたがっただろう。

後述するように、本書は翻訳の技芸で一個独自の境地をつくった。訳の当否巧拙を言うことは、本書に限っては当を得ない。「訳文込み」で、味わうべき一書である。

鑑賞対象とはこの場合、作者フィリップ・K・ディックの描いた人物、その懊悩、生きる時代と空気であるだけではない。これを、時として明治漢文調の語彙に置き換え、なおかつ青春小説の香気を保ち得た訳文の妙、少なくも、その独自さに存する。

読者はいち早くそのことを知り、受け入れるべきで、頻出する難読字に気圧されるなどして巻を措いてはならない。漢字に振られた振り仮名の夥しさ、強引さが煩わしくならなくなる頃、小説本来の流れに身を委ね、作品世界に没入している自分が見つかるだろう。

主人公と、登場する同世代の友人たちは二十歳代半ば。半分以上大人になっている。そのくせ、大人になりつつある現在進行形を生きる彼らは、大人になった完了形の自分を、いまある自我の延長上に思い描くことができない。それを想像すること自体が、嫌悪や恐怖を催さずにいない。

大人になってしまったわれわれは、そうした生理的防御の機制とは、未来が予見できない=予想リスクの範囲を限定できないところに芽生えるものだと知っている。「僕は、どんなになってしまうのだろう」という不安は、何にせよ、どんなにかなってしまった後振り返ったところで、空無の問いだったと思えるに過ぎない。

本書に青春小説として不滅の輝きを与えるものとは、いつにかかって、人を否応なく大人にしていく時間という不可逆な暴力が、青年の肉体を通過していくその痛み、恐怖を、なまなましい肉体の律動を感じさせつつ定着させた一点にある。

引用に値する章句は随所にあるが、典型的には主人公スチュアート・ハドリーによるモノローグからなる、次の一節――。

「ぼんやりと思った。僕はどこにいるんだろう…いま何時なのか。スチュアート・ハドリーの人生の鎖をたぐっていくと、これはどのスチュアート・ハドリーなのか。幼児、少年、青年、セールスマン、中年の父親…眠気を誘う夢のきぬずれ。曲がり角や袋小路で攪拌され、野心と恐怖が渾沌りあっていた。あちらこちらと漂い、満ちたり干いたり、それがつねに彼の一部になってきたのだ」(287ページ、「攪拌され」は「かきまわされ」、「渾沌りあって」は「まじりあって」と振り仮名がある。「いま何時なのか」は原文では「when he was」。「どの時点にいるのか」と訳すべきところ)。

しかも小説の舞台アメリカとそれを包む世界とは、何重もの層にわたって変化のただ中にあった。自我における疾風怒濤は、アメリカそれ自身の激動と共振し、増幅し合う関係にある。

日本との死闘は終わったばかり。水爆ができ、朝鮮で戦争が始まった。大量殺戮と大量死の実態と恐怖を、アメリカ人たちが、身体的恐怖とともに生々しく感じていた時だ。戦後アメリカを襲った心的外傷後ストレス障害ともいうべき赤狩りマッカーシイズムは、ちょうど猖獗を極めている。

メディアは、テレビ時代の劈頭にある。疑似環境としてのメディア空間は、まだ極めて狭い。それゆえに知識人が占める地位は逆比例して高く、主人公ら青白いインテリたちには、おのおのに崇拝対象がある。

受信機は、テレビ、ラジオともすべて真空管式だ。これがトランジスターとプリント基板になって初めて、ユニット当たり輸送コスト・同破損リスクとの見合いで日本製品は圧倒的競争力を得、米国市場に流入するけれども、作中時代設定はその前、半田ごて1本あればいくらでも修繕がきいた頃だ。主人公スチュアート・ハドリーは、そんな時代に個人経営の電器店、都市中心商店街の一角に間口を構える店舗で、売り子として働いている。

ところが作品世界では、チェーン・オペレーションの浸食が早くも始まっている。ロード・サイドの大型店によって、街中の小規模店舗はやがて駆逐されていく。そんな運命が暗示されている。

人並みに学歴はあり、容姿に恵まれてもいるというのに、斜陽産業の一店主に収まって、若くて神経質な妻と、どこか他者としてしか感じられない乳呑み児の世話に時間を費消して、それでいいのか。僕は、いったい何者で、これからどこへ行くのか。

そんな悩みなんか、毎朝決まった時間に歯を磨き、通勤電車に揺られて定時出勤するうち消えてなくなるさ――。かつて江藤淳は座談会で大江健三郎をそう言って大いにやり込めたけれども、本書執筆当時25歳の著者には、懊悩を誘う問いであるに違いない。

主人公スチュアート・ハドリーの前途には、主人公自身意識はしていないかに描かれつつも、3つの世界が入口を開け手招きしている。1つは最も平凡な道。いまの勤めに精を出し、オーナー店主の多店舗展開を追って、責任を増していく道だ。

もう1つは高校時代の友人で、インテリになり損ねたか、これからなるつもりのユダヤ人の男とその妻が生息する拗ね者の世界。ここには後の、ヒッピー風ライフスタイルがその臭気とともに萌芽を覗かせている。

しかし主人公を自己破壊の衝動に突き進ませる強烈な磁力は、巨躯を揺する黒人宗教者からやってくる。

日本における新興宗教教祖たちが生きた時代を思っても諒解されることだが、宗教は、社会における変化の振幅周波数が高ければ高いだけ、新しく生まれ、力を獲得するのだろうか。本書には、巨魁の黒人伝道者が圧倒的動員力と禁忌を破る妖しさ(黒人に帰依すること自体がタブーだった)をまとって登場する。

それは米国という流転を常とする社会でなぜキリスト教に新興宗派が現れ、扇動的影響力を保ち続けたかを思わせて示唆的であるけれど、小説はむろん、そんな分析には及ばない。黒人宗教者にしても、主人公スチュアート・ハドリーの揺曳し続ける自我をいっとき強烈に射抜き、またしても大人になる痛みを感じさせる主体として現れるに過ぎない。

スチュアート・ハドリーは、自己破壊へいかに突進するのか。その終局に、大人になる瞬間は訪れるのか。訪れるとしてそれは、甘美な体験なのか。小説の大団円は、ここらに現れる。ページを繰るのさえ、もどかしくなる。

米国が、幾重にも曲がり角を迎え、巨大な変化のただ中にあって未来を予見しにくい時代にあったことを、作者ディックはまさしくその渦中にありながら、自覚的に記録し得たのだとは思えない。後にSFで一家をなす著者の観察眼は、期せずして米国の――ということはある程度まで普遍的に資本主義・大衆民主主義国家の――変化を、その渦中において定着させた。巧まざる天才であろう。

これと、青年が大人になるときの通過に伴う痛みと発熱を重ね合わせ、織り合わせ、後半に及ぶにつれ疾駆する筆致でスピード感の中一編の物語としてしまった手腕に、ディックの天稟はその本領を発揮している。

主人公が生きる世界と、未来が分からないこと――何が分からないかさえ分からないこと――への恐怖を描いて、次のパッセージは美しくも象徴的だ。やや長いけれど、訳文解読への橋渡しとするつもりもあり、読んでみてほしい。

彼の心に生き生きとしたイメージが浮かんだ。燦々と明るい夏の朝、お店を開ける光景だ。すがすがしい湿った大気は、夜露の香りがして、クルマや歩道に瀲灎(きらきら)と光を散らしている。小走りの秘書たち、日よけを巻きおろす商店主。ゴミ屑を暗渠に押しやる黒人。人々の市声(ざわめき)と物音。町が息づいて、あわただしい日常が始まる。ヘルス・フード・ストアのコーヒー…電話がりんと鳴って…オルセンがその日の修理品を携えて、不機嫌な顔でトラックに乗りこむ。

「そうなんだ」と彼は破れかぶれになって言った。足を速めた。暗闇が怖い。マーシャと遠出した晩を思い出した。あの蕪(あ)れはてた道。駐めた車。蟋蟀(こおろぎ)の音色。あからさまに索漠とした孤独と荒廃。「家に帰って寝よう――あしたは早起きしなくちゃ」

「寒いわ」とエレンが言った。彼に肩を寄せて、からだを震わせ、遅れまいと急ぎ足になった。「ねえ、ちょっとピートを抱いてくれる?」

ハドリーは息子をひったくるように受け取った。赤ん坊はびくっと動いたが、目を覚まさなかった。頭上の寒々とした星辰(ほしぞら)が、刻一刻、遠ざかっていくようだ。広大無辺の宇宙。一箇の人間が取っ組み合うには、巨きすぎる。いったいどうして危険を冒して、そこに飛びこみたいなんて思えたんだろう。不毛にして猖獗を極める宇宙。無限の涯まで延々と続いて、人の煩悩にはまるっきり無関心だ。いまでも彼の憧れは、心温まるあの店にあった。人手で建ててあって、行き届いている。そしてあれこそ、彼に披(ひら)かれた唯一の世界だった。あそこに浸かって、すっぽり身を沈めていたい。

ぬくぬくと浸れば浸れる日常があって、手の届かない広大無辺な宇宙がある。これを二元対立ととらえる図式が、著者の描く若さの凝縮である。なにか、違った自分、どこへだか、わからないところへ行く自分。そんな自分を想像することは、寒々として、かつ魅了してやまない。怖いけれども、見ずにはすまされない。

サリンジャーの「ライ麦畑」(とその翻案、本邦の庄司薫)を読んで、自分のことかと思った若者は、評者の知る限り1970年前後において少なくなかった。本書にも、読み手をしてそう思わせる力があるだろうと信じたい。残念ながら、もはや若さと縁を切って長い評者には、主人公がしでかす自分探しの彷徨とそのエクセントリシティは、しばしば付き合いきれない嫌悪感を催させたが。

いま長い引用をしたには、もうひとつのワケがあった。本書は先刻示唆の通り、原典に対する翻訳という中性的地位に甘んじようとしない。量において圧倒的、その用法において異端的といえる語彙の豊富さが、訳書にそれ自身として屹立することを要求している。そこを、ごくかいつまんで見る用にも供したかった。

原文と照らし合わせたところ、引用範囲において誤訳と言えそうな箇所は一点のみ。「宇宙」の形容として現れる「不毛にして猖獗を極める」は、原文においてarid and hostileで、ここは「不毛にして人を寄せつけない」くらいにしておくべきだったか。

が、重箱の隅をつつくのはさておいて、荒蕪の蕪に「荒れ果てた」の意味を与え、星辰に「ほしぞら」とルビを振る訳者のこだわりはどうだ。市声をざわめきと読ませるその出典は、どこに。

極めつけは「瀲灎」であろう。レンエンと読むことと、その語義を知っていて、初めて「きらきら」なるルビが振れる。こういう箇所を見て評者にすぐ想起されたのは、小林秀雄がその初期に「人生斫断家アルチュル・ランボオ」という評を書いたとき、東大仏文同期だった中島健蔵(だったと思う。いま再確認するゆとりがない)が、「シャクダン」という字をどう読むべきかわからず、閉口したと告白した故事だ。

小林訳のランボーは専門家から誤訳の数々を指摘されながら、安岡章太郎など「旧制高校生の気風が漂う」独自の訳だと愛好する読者が絶えないゆえ、今日なおその価値を失っていない。ディック処女作の阿部重夫訳は、誤訳曲解において甚だ少なく、当て字難読字の頻用において際立ち、それゆえに一個の独自世界をつくった。

いま任意に412ページを開いてみると、こんな表現がある――「噪々たる万竅怒号(ばんきょうどごう)の音。あたりを圧する鼓鼙(こへい)の轟き」。実は怒号の「号」には口扁がついているのだが、パソコンにそんな字は備わっておらず、略字で済まさざるを得なかった。さだめし、版元は作字に神経と多少の追加出費を払わざるを得なかったことだろう。

ところが原文においてこの一節は単に、the continual shuffling tramp of feet above him, the disturbing roll and boomと、ごく平易な文章だ。それなら訳者が見せた漢字の選定はただの大仰、衒学趣味に過ぎないかといえば、そうと言い切れない。

辺りを圧するような足音の発生源は、例の黒人伝道者につき従って祈りの集いに集まろうとする群衆である。聞き手はそこに、畏怖や恐怖を感じ取っている。そのニュアンスまで表そうとしたとき、訳者には、明治時代に生きていた漢字が蘇った。と、言うのでは物足りない。こういう場合に、漢字のみのもつ象形性、図像イメージを湧き上がるに任せる観念世界をもつ訳者を得て、初めて、ディック処女作は日本語に置き換えられたのである。

評者がひそかに推察するところ、この訳者は、表意・象形文字としての漢字が喚起する脳内図像に対し、定期的な捌け口が必要な類の人物なのではないか。なかんずく、それが思想の言葉となった場合、言葉それ自体が命を得て、他の言葉と交流し、触発しあうさまに、汲めども尽きせぬ魅力を感じる人であるに違いない。

訳者は本書本文において、いま述べた段落前半の欲求にカタルシスを与え、後段の志向には、巻末解説をもって満足を与えたかにみえる。訳者には、近代思想それ自身を主人公としその大河ドラマを描く類の、壮途というほかない未完作(『有らざらん壱』、『同、弐』、オンブック刊)がある。汲み取れる疑いもない特徴とは、天才たちの頭脳が胚胎する言葉と、それが実人生のドラマによって意想外の交流を果たし、化合し昇華して新たな何かに変異していく様を、ことのほか面白いと思ってやまない強い性向である。

してみると本書は、訳者の語の真の意味における道を楽しむ業、すなわち道楽であろう。多用な中よくもできたものだと訳業に驚く人は少なくあるまいが、訳者にとっては寝不足が重なる以外、苦にならない。むしろ欠くべからざる一種の代謝機能を、訳業に果たさせているかにすら思える。

(たにぐち・ともひこ 内閣審議官・慶應義塾大学大学院SDM研究科特別招聘教授)