阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2013年8月 9日 フィリップ・K・ディックの処女作を翻訳しました

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8月13日(同9日配本)に平凡社からフィリップ・K・ディックの幻の処女作を翻訳した「市に虎声あらん」(2400円+税)を出版します。

彼は映画「ブレードランナー」や「トータル・リコール」「マイノリティー・リポート」の原作者として知られるSF作家ですが、本来は純文学志向でした。この作品は25歳になる1952-3年に書いた普通小説で、カルトやマッカーシズム、核実験などを背景にした不思議な作品です。

終末観の漂う表紙は一見、夕日のように見えて、実は太平洋上で行われた核実験の写真です。現代のアミターユス(阿弥陀)はこういう来迎図で出現するのかもしれません。

一読、こんな若くしてすでに完成された作家だったという驚き。処女作らしく、後年のテーマがすべてぶちこまれています。しかも、ジョイスを模した前衛的手法を試みていて、そのショッキングなバイオレンス描写は、SFでは見せなかった彼の一面です。

それにしても事件取材の切った張ったの日々に、「酔狂」にも翻訳? そんな暇がよくあったな、とお叱りを受けそうです。

FACTA創刊から丸7年を過ぎ、余裕ができて「余技」に走ったわけではありません。原文を読んで、訳してみるかと思い立ったのはもう5年前になります。当時はまだ現役の編集長で、てんてこ舞いの日々でした。

確かに四半世紀前にディックのSFを2冊翻訳したことがあります。しんどくて、こんな辛気臭い作業など二度とやるまいと思いました。それから、スクープを追うほうが並みのミステリーを読むより面白くなり、現実の事件の推理と駆け引きとスリルの日々で、何も振り返らなくなりました。

でも、小説とはまるきり無縁の、殺伐たる資本の世界をひた走っていると、ヤマギシ会に材をとった女仕置人みたいなカルト小説が絵空事に見えてしかたがない。世界はもっとリアルで激烈なのに、その興奮を薄口にするのはもったいない。

そこに、埋もれていたディックの処女作が世に出てきました。一読して、ほかに訳す人など出てこないと思ったのが第一です。もう半世紀以上も前の世界なのに、リアルに人声と荒い息が聞こえる。

ときに酔眼朦朧の夜更け、あるいは寝ぼけ眼の早朝、一日二ページのペースでぼちぼち翻訳していきました。そこに何か見知らぬ世界が出現すると信じて。

そういう寡黙な作業は、取材の過程とそう変わりません。スクープからも翻訳からも、世界の「開かれ」Lichtungがあっていい。ここにはもう一つのアメリカが、くっきりと捉えられています。ご笑覧ください。もし気に入ったら、誰かにご紹介もお願いします。