阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2013年3月17日 教皇フランシスコ1世と『薔薇の名前』

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初物尽くしの新ローマ教皇フランシスコ1世について一言。小生はカソリックでも、クリスチャンでもないが、アルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76)がなぜ、第266代にいたるまで忌避されてきた「フランシスコ」の名を選んだのか、誰も説明してくれないのがちょっと不満です。

新聞はもっぱら、中南米出身の法王は史上初めてで、欧州以外の地域から法王が誕生するのは第90代法王のシリア人グレゴリウス3世(在位731〜741年)以来1272年ぶりだということ、さらにイエズス会出身の教皇も初めてだということを強調しています。

確かに教会力学から言えば、バチカン銀行の金銭スキャンダルや有力枢機卿のセクハラ・スキャンダルが多々起きており、欧州人でない教皇を選ぼうというモチベーションが働いたのでしょう。毎日新聞は、地元紙の記事をこう転電(引き写し)しています。

3月15日付イタリア紙コリエレ・デラ・セラは新ローマ法王フランシスコ1世(76)が法王選挙会議(コンクラーベ)で、選出に必要な参加枢機卿115人の3分の2を大きく上回る90票以上を獲得して選出されたと報じた。

アイルランドのブラディ・アーマー大司教の話として伝えた。投票の際、フランシスコ1世の得票が選出に必要な77票に達すると会場から拍手が起きたという。コリエレ・デラ・セラ紙によると、コンクラーベに先立つ準備会合で、イタリア人枢機卿団の有力者は、「身内」のスコラ・ミラノ大司教(71)を推さないことで一致したという。スコラ大司教を排除したいイタリア勢と、「米州法王」を望むドーラン・ニューヨーク大司教ら米国枢機卿団の間で「合意」が成立した結果、フランシスコ1世の選出に結びついたと分析している。

それはそれでいいが、なぜベルゴリオ枢機卿は「フランシスコ」の名を選んだのでしょうか。フランシスコといえば、中世の聖人「アッシジのフランシスコ」。サンフランシスコの名の由来でもありますが、その清貧主義に基づき13世紀に托鉢修道会「フランシスコ会」教団が結成され、教会はすべてを投げうって貧しき人を救えと当時の教皇庁を突き上げました。

やがて教団は分裂します。修道院の荘園運営を重視し、現実的な路線を歩む多数派(共住〈コムニタ〉派)と、貧困の聖化に徹する少数派(聖霊派〈スピリチュアーリ〉)に割れます。

僧院を出て貧者や病者のもとに飛び込んだ修道士たちは、否応なく「猛烈な経済発展で強く特徴づけられた市民社会と接触」(コンスタンティーノ・マルモ)することになり、かえって寄進や遺贈を受け入れ、不動産の売買に手を染めて、貨幣経済に丸ごと浸かっていくのです。

この矛盾と分裂をふさごうと1279年、フランシスコ会総長ボナヴェントゥラの助言に従って、教皇ニコラウス三世が教書を出します。そこで「修道院に財産権なき事実上の用益権(usus facti)を認める代わりに、財産権は教皇庁に属すことにする」という便法が持ち出されます。

これに対し、プロヴァンスのフランシスコ会士で、利子を肯定したヨハニス・オリヴィは、用益権を最少にする「清貧なる使用」usus pauperを唱えて聖霊派の肩を持ちます。

聖フランチェスコが「聖霊の時代」のキリストなら、オリヴィは聖パウロに比定されます。1248年か49年にプロヴァンスのセリニャンで生まれ、パリで大学入学資格(バカロレア)と取ったのち郷里へ帰り、周辺に聖霊派の弟子たちが集まります。

1285年にオリヴィは「迷妄的な徒党の領袖」として告発され、存命中から弟子たちへの迫害が始まります。結局、オリヴィは98年にナルボンヌで世を去り、死の床で自分の著作の是非は教会に委ねると遺言していますが、翌99年にはリヨンでその著作が異端と断罪され、所持するだけで破門される禁書になってしまいます。

その10年後、フランシスコ会はついに共住派と聖霊派に分裂、教皇クレメンス5世のもとで査問が行われ、1318年にはマルセイユで聖霊派の4人が火刑に処せられる事態となります。

「オッカムの剃刀」で有名な神学者ウィリアム・オッカムが、フランシスコ会総長とともに教皇に召喚され、命危うしとみて逐電する事態も起きました。

察しのいい人は分かりますね。これはウンベルト・エーコが書いた『薔薇の名前』の世界です。ワトソン役である修道士メルクのアドソが、フランシスコ会聖霊派の指導者から聞かされるのは、異端視されたこの使徒派のことですし、実在の異端審問官ベルナール・ギイは『薔薇の名前』にも登場します。

さて、この中世の暗闘は通い昔のことではありません。高齢を理由に退位した前教皇ベネディクトゥス16世が、2010年3月10日に行った第216回一般謁見演説にはこんなくだりがあります。

聖ボナヴェントゥラの時代に、「聖霊派」と呼ばれる「小さき兄弟会」の一派がこう主張していました。聖フランチェスコをもって歴史のまったく新しい段階が始まり、「永遠の福音」が現れた、黙示録に語られるこの「永遠の福音」が新約に取って代わるのだと。〔中略〕フィオーレのヨアキムは、新しい時代の始まりは新しい修道制によって到来するという希望をかき立てました。ここから、フランシスコ会の一グループが、アッシジの聖フランチェスコを新たな時代の創始者とみなし、フランシスコ会を新しい時代の共同体と考えたわけを理解できます。この聖霊の時代の共同体は、位階的教会を後にして、もはや古い組織に縛られない、新しい聖霊の教会を開始するのです。それゆえ、そこには、へりくだりのうちに福音と教会に従った聖フランチェスコのメッセージを深刻な形で誤解する危険がありました。そして、この誤解はキリスト教全体に関する誤った考え方を含んでいました。

はっきりとフランシスコ会を非難しているのがお分かりでしょうか。保守派と言われた前教皇は、中世に由来する托鉢修道会が、「財産放棄」という革命的スローガンによってローマ教会の秩序を揺るがしたことに否定的な立場でした。

新教皇は前任者のもっとも嫌がる名を選んだことになります。黒田日銀が白川日銀の「全否定」をスタート台にするように、フランシスコ1世もよどんだバチカンの薄暗がりに窓を開けられるのでしょうか。