阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2012年11月10日 ヨルムンガンドとリヴァイアサン12 魔女のほうき

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ジル・ドゥルーズが引用しなければ、ニューヨーク生まれのユダヤ人作家、バーナード・マラマッドが、ピューリッツア賞を受賞した小説『フィクサー』で、スピノザに触れていたことなど思い出さなかったろう。

マラマッドはまじめに読んだことがない。たぶん、ほとんど出席しなかった大学の授業で、だれか英米文学の教師がマラマッドの何か(忘れたけどThe Magic Barrelだったかな)を教本に選んだことから、教師嫌いとまぜこぜになって、ほとんど食わず嫌いになってしまった。でも、映画化されたロバート・レッドフォード主演の野球映画『ナチュラル』は悪くなかった。彼がどこかで書いたという警句は今も気に入っている。

あらゆる人間はユダヤ人である。ただし、それを知っている人は少ない。


『フィクサー』も記者になってほどなくロッキード事件に巻き込まれたから、その縁で早川の翻訳(確か『修理屋』というタイトルになっていた)を読んだ記憶がある。今だから笑えるが、まるで関係がなかった。でも、当時、スピノザの『エティカ』に夢中になって傍線まで引いて読んでいたのに、ドゥルーズが引いたくだりがあったことは忘れていた。

――どうしておまえがスピノザを読む気になったのか、ひとつそのわけから聞くとしよう。スピノザもユダヤ人だったからかね。

――いえ、閣下、そうではありません。あの本に出くわしたときには、ユダヤ人だということさえ知りませんでした。それに、伝記をお読みになっていればおわかりでしょうが、シナゴーグではスピノザは嫌われ者も同然です。あの本は近くの町のくず屋で見つけて一コペックで買ったのですが、そのときは、あんなに稼ぐのに苦労した金をむだづかいしてしまってと半分後悔していました。しばらくたってからぱらぱら読んでみているうちに、急にまるでつむじ風にでも吹かれたようになって、そのまま読みつづけてしまったのです。さっきも申しましたように、私には全部理解できたわけではありません。でも、あんな思想にぶつかったら、誰だって魔女のほうきに乗っかったような気になります。あれを読んでからの私は、もうそれまでの私とは同じ人間ではありませんでした……

閣下は主人公にスピノザの本の意味を尋ねるが、どうでもいいくだりだ。問題は「魔女のほうき」である。『エティカ』第5部で確かにじぶんもそれを経験した。96年に飛び降り自殺したドゥルーズは、フェリックス・ガタリとの最後の共著、いや遺書ともいうべき『哲学とは何か』で、もういちど、この「魔女のほうき」に帰っている。

内在はそれ自身〈に〉〔内在して〕あるのでしかないということ、したがって、内在は、無限なものの運動によって走り抜けられる平面、もろもろの強度的=内包的縦座標によって満たされた平面であるということ、これを完全に知っていた者はだれあろう、そのひとこそスピノザであった。それゆえ、彼は哲学者たちの王である。

ドゥルーズらしい難解な表現だが、この最大限の賛辞に続いて、彼はマラマッドの主人公の語る「自由」と同じことを語り出すのである。

おそらく彼〔スピノザ〕は、超越といささかも妥協しなかった唯一の人物、超越をいたるところで追い払った唯一の人物であろう。彼は『エチカ』最終巻において、無限なものの運動をつくり、そして思考に、第三種の認識〔直観知〕における無限速度を与えたのである。彼はそこで、途方もない速度に達し、かくもまばゆい電光石火の短縮を成し遂げるので、わたしたちはもはや、竜巻、音楽、風邪、そして弦についてしか語ることができないほどである。彼は内在のなかに比類なき自由を見いだした。

ヨルムンガンドが空から降臨し、ホッブスの契約説の仮定が排除する「第三者」――錯覚としてのリヴァイアサンを空無化するのは、スピノザが超越を追い払ったのと同じだ。内在が「比類なき自由」だという発見がヨルムンガンドだと言えばいい。

だから、元少年兵ヨナはそこで武器商人との旅を終える。といっても、直ちに永遠平和のユートピアが出現するわけではない。「新しい世界を旅する」のは、ドゥルーズのいう「思考の絶対速度」に達するからだ。そこでスピノザは「哲学者自身に哲学者でなくなることを教え」、半眼のヨナはココ・ヘクマティアルと見分けがつかなくなる。