阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2012年11月 7日 [書評]オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評

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2012年11月3日付の熊本日日新聞で書評しました。

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』(浜本正文訳、岩波文庫)という本です。単行本として絶版になっていたものを岩波が文庫本として再刊したものです。新刊本ではないのですが、ほとんど幻の本で、初版はあんまり評判にならなかったと記憶していますので、あえて書評に取り上げました。

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進歩の思想を否認した囚人

ブランキは19世紀フランスで執拗に武装蜂起を試みた不屈の革命家である。逮捕、拘束、懲役、死刑判決の連続で、獄中通算33年というこの「巌窟王」が、老いて独房で書いたのが本書だ。政治論や革命論ではない。なんと宇宙の無限を論じた奇書である。

晩年の芥川龍之介が読んでいたことは、アフォリズム集『侏儒の言葉』で明らかだ。

「宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。〔中略〕これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯(ただ)ブランキは牢獄の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我々の心の底へ滲(し)み渡る寂しさを蓄えている」

芥川の末期の目は正確だった。ブランキは遅れてきたサド侯爵かもしれない。

数学者兼天文学者ラプラスの機械論的宇宙観に異を唱え、孤独な彗星に不思議な共感を寄せている。「何世紀も前から、我らが大気圏の柵につながれ、空しく自由もしくは歓待を求め続けている、哀れな囚人たちではないだろうか? 曙光と黄昏の光の中で、両回帰線間の太陽に照らし出される、あの蒼白きボヘミアンたち」はほとんど自画像に思える。

だが、独房には天体望遠鏡も数式もない。類推法だけが唯一の武器だった。浮かんできたのは、無限の時間の中で必然的に生じる有限の反復――永劫回帰の憂鬱である。

「我々の一人一人は、何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう」

日の下に新しきものなし。それは数学者カントールの無限集合のパラドクスを予見していた。奇妙なことに、彼が幽閉されていた監獄ともそっくりなのだ。

監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。

あらゆる政体を否定する陰謀家。胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。

ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』は「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し、「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。

彼らのニヒリズムに芥川も同期した。そのアフォリズムはこう結ばれる。

「夢は既に地上から去った。我々も慰めを求める為には何万億哩(マイル)の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ」

現代の日本でも本書は、あらゆる進歩の思想に幻滅した人向きかもしれない。