阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2012年11月 6日 ヨルムンガンドとリヴァイアサン12 スピノザ

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サン=テグジュペリの『人間の土地』は、サハラ砂漠で不時着した体験を描いている。それは『星の王子様』の原体験とも言えるが、奇跡の生還といった感激の体験記ではない。ひとたび「鳥の目」で世界を見てしまった男が、じぶんの生死もこの世の一切も、臨死の目で見ている不思議な浮遊感に包まれている。瀕死の床に横たわる自分を、部屋の片隅から見下ろすような遊体感覚である。

ヨルムンガンドの「空の遮断」も、ほんとうはそんな遊体世界が降臨することだったのではなかろうか。もちろん、そんな降臨などありえない。憲法9条の待ちぼうけが、いつかかなえられるという空しい期待と同じように。ユダヤ民族の「約束の地」も、カントの「永遠平和」も、ベケットの「ゴドー」も、けっしてその日は来ない。

コミックスの『ヨルムンガンド』で、青空にかざしたテンキーの移動体発信機に「発動!」と叫んでも、「新しい世界」が発動することはすべからくない。物語はそこで幕、いや、終わらざるを得ない。絶対平和のヨルムンガンドが、国家というリヴァイアサンに入れ替わることなど、どこまでも絵空事だからだ。

しかし何かが残る。逆説的だが、ヨルムンガンドが抹消しようとした「鳥の目」が残る。

すべての属性にとってただひとつの実体というスピノザの第一原理を、知らない者はいない。しかし、すべての身体や物体にとってただひとつの自然、無限に多様に変化しつつ自身もひとつの個体であるような自然、という第三、第四、第五の原理も、みな知っているのではないだろうか。これはもう唯一の実体を定立しているのではない。すべての身体や物体、すべての心、すべての個体がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面(プラン)を展き延べているのである。(ジル・ドゥルーズ『スピノザ』)

バールーフ・デ・スピノザは、イベリアから亡命したユダヤ人富商の息子として1632年にアムステルダムで生まれたから、ホッブスの同時代人と言っていい。が、その『神学・政治論』は、保守的なユダヤ人社会ばかりでなく、デカルト主義のリベラル派からも「手の込んだ偽装を施した無神論」とみなされて囂々たる非難を浴びることになる。

スピノザは孤立した。彼は有名なレンズ磨きをしながら、下宿の一室に隠遁した。

彼はホッブスを読んでいた。だから、自然権を放棄して契約によって国家を形成するホッブスの説を『神学・政治論』でも踏まえている。だが、晩年の未完の『政治論』では、トートロジカルなホッブスの矛盾に踏み込んで、契約を履行させるためには自然権ではなく力そのものを放棄しなければならないと大胆なことを言いだす。これはココ・ヘクマティアルの飛躍した妄想に近い。

各人がその有するすべての力を社会に譲渡すればいい。そうすれば社会のみが万事にたいする最高の自然の権利を、いいかえれば最高の統治権を保持することになるだろうし、各人はこれにたいして自由な考えによってなりあるいは重罰への恐れによってなり従うようになるだろう。(スピノザ『政治論』)

ホッブスが力を譲渡するには自然権を放棄しなければならないと言っているところを、スピノザは自然権を放棄するには力を譲渡しなければならないと裏返しにしたのだ。

各人の自然権はその人間の力によってのみ決定されるのだから、そこからして次のことが帰結する。すなわち、各人はその有する力を自発的にせよ強制的にせよ他者に譲渡すれば、そのぶん自己の権利をも他者に対し必然的に放棄することになるということ、かつまた、全員を力づくで強制したり、あまねく恐れられる重罰の恐怖によって掌握したりできるような最高権力を有する者は、全員に対して再考の権利を有することになるということ、これである。(同)

これはホッブスのような自然権放棄の始点、仮定としての空間が成立しないこと、さらに自然権の放棄は力を社会に譲渡する「結果」であって「前提」ではないことを意味している。では力を譲渡される「社会」とは何か。とりもなおさず「民主政体」を指すのだが、奇妙なのはスピノザが、神に自然権を譲渡する古代ヘブライ国家の原初契約とこの「民主政体」への力の譲渡を同一視していることだと上野修は言っている。

それはスピノザの思想が、ユダヤ教の根本と通じていたことを示すのではない。むしろその逆だった。

スピノザがそれをあえて同型とみなすとすれば、それはいずれの場合も〈力〉の譲渡先が「社会」とか「神」といった契約する人間たちの誰でもない第三者であり、いずれの契約もそのような彼らのうちの誰でもないものへの力の譲渡に先立たれてはじめて「契約せねばならなかった」、そういう契約であるという理由をおいて他にはあるまい。(上野修『デカルト、ホッブス、スピノザ』)

スピノザが「社会」とか「神」とか呼んでいるものは、いわば便宜的であり、上野によれば「全員がその中にあってそれぞれに『残りの者』とイマジネールな仕方で関わることから各人を超える力が実際に作り出されてしまう、そうした〈内部〉にあてられた呼び名であり、そのような力の所在の表象」ということになる。

神も社会も呼び名に過ぎない? これってゾクゾクするほど無神論ではないか。スピノザが危険視されたのは無理もない。ドゥルーズが「スピノザのただなかに身を置くとは、このような様態的平面の上に身を置く、あるいはむしろその身を据えることであり、それには当然、生のありよう〔様態〕、生き方がかかってくる」と言うのも、スピノザの発明によるこの明晰な地雷原――自然的光明 Lumen Naturaleを透視できたからだろう。ヨルムンガンドがリヴァイアサンの上に降臨してくる瞬間とは、スピノザのLumen Naturaleの空間によってあなたが透過される瞬間だ。