阿部重夫主筆ブログ「最後から2番目の真実」

2012年1月31日 [書評]岩下尚史『ヒタメン』――半玄人の告白

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いまどき、江戸・明治風の擬古文など綴る人はめったにいない。ゆくりなく、とか、疝気筋、とか、後生楽、とかをつかう作者(岩下尚史)は、わざとらしいと言われるのは承知の上なのだろう。その文章修業、さしずめ泉鏡花あたりに属魂だった時期があるにちがいないと見た。

風姿花伝に言うとおりである。「よきほどの人も、ひためんの申楽は、年寄りては見られぬもの也」。なるほど、岩下氏も例外にあらず。長く住む三軒茶屋の人に聞けば、昔は白皙の美青年だったけれど、ちかごろはちょっとお肥りになって、だそうな。

が、文章は脂がのっている。芸者論とその続編の名妓の資格は、いまは亡きワンダーランドの楽しみを満喫させてくれた。そのあとの駄作の小説紛いはひょいと跨ぐとして、「三島由紀夫 若き日の恋」の副題のついた今度の『ヒタメン』は、これまためったにお目にかかれない、というより羨ましいインタビュー本である。

座談の名人というのがいる。噺家ではない。昔なら漫画家の近藤日出造、大宅壮一あたり。今はさあ、どこぞに、という塩梅だが、インタビュイーを喋る気にさせる、そそのかしの才は、文章の才と同じく天賦のものと言うほかない。

岩下氏も自覚しているように、天は二物を与えず、とやら。彼の文章の才は技巧が先走って嫌味が鼻につくが、三島結婚前の幻の「X嬢」の口を開かせたそそのかし、これは尋常ではない。というより、その秘密(三島の秘密ではない)を覗きたい一心で読みとおした。

ジャーナリストがいかに嫌われ者かは、ガマ面の都副知事が、歯牙にもかけられなかったことでよくわかる。金田中や若林、伊勢半やゑり萬など固有名詞の注は、むろん素人にはありがたいが、花柳界や梨園にちょっと詳しいくらいで、どうしてオトせたのか。これはジャーナリストのプロも虚心坦懐、腰を低くして学びたい。

ヒントは49ページにある。いや、速読したいなら、そこから読むべきである。三島の『沈める瀧』の冷感症の主人公、顕子を評した、平林たい子の寸鉄人を殺す評がある。

だけども、あの女の部分は、第一、どんな女か、女が読めば判りませんよ。水商売の女か、つまりクロウトかシロウトか、全然判りませんよ。

赤坂の料亭若林の娘で、ふだんから芸者衆と親しく、歌舞伎役者の楽屋にも出入りして、想像を絶する着道楽の世界で何不自由なく育った“半玄人”の恋人をモデルとしたから、無理もないこと、というのが岩下氏の見立てである。本人の文章を引こう。

『仮面の告白』以来、“女嫌い”を看板の小説家が、自己変革を遂げるために、“運命愛”の相手として見出した貞子さんが、“おんな”のなかでも希少なる“半玄人”であったことは、三島由紀夫にとって、まさに“千載一遇”の女人であったにちがいない。

ここで巻を置いてもいい。あとは「目の下一尺の鯛」を釣るかわりに土左衛門を拾う、落語の「骨つり」のようなものだ。三島の片思いの残骸をがさごそ漁るだけである。

しかし、幼稚園から白百合育ち、慶応女子高を出て、あとは花嫁修業のこの十九歳の娘。待合の世界で育っただけに、落魄の貧乏官吏の息子で、筆一本で一家を支えていた作家を手玉にとるくらい、朝飯前のしたたかな女だったと思える(金田中あたりで知ったかぶりすると、どんなに恥をかくか、しっかり徳子ママに教えてもらおう)。

白百合? 慶応? と聞いて、娘時代にさんざん遊んでも、いつのまにかお金持ちの令夫人に収まる怜悧な女たちを思い浮かべた人がいた。3年間、付き合っても結婚する気などさらさらなく、ふっと理由も分からず会わなくなる。

それにね、これは申し上げにくいんですが、当時のわたくしの胸の内を思い返しますと、公威(三島)さんがあれほど打ち込んで、わたくしを大切に想って呉れていたほど、こちらのほうでも恋していたかと申しますとね、正直、それが一寸あやしいんです。(中略)ちょうど小学生が朝になれば顔を洗って、鞄を提げて学校に通うのと同じよう……

三島はフラれたのである。やがて画家杉山寧の娘と見合い結婚し、その不毛に直面した三島が、別の男と婚約していた貞子と、日比谷のアメリカン・ファーマシーで出逢う場面は残酷すぎる。けれども、それを語っているのが、背を向けて立ち去った貞子なのだ。

岩下とのインタビューで、一度も三島を悪く言わなかったという。が、こうして秘密を明かすことは、夫も死んだから何ともないのだ。人生も終り近くなって明かしたくなったのだろう。『天人五衰』の終章を思い出す。膵臓癌を患った本多は、月修寺で八十三歳の門跡、聡子に対面する。彼女は男を覚えていない。「それも心々ですやさかい」と言われて、本多は茫然と夏の庭をみつめる。

この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

忘却のほうがまだましだった。聡明なる岩下氏は、なぜ打ち明け話の相手役に指名されたか、いまは透けて見えるはずだ。己れをただの着飾った性悪女と見せない、もうひとりの心酔者が必要だった。しかも、男でもなく、女でもなく、無害な「両棲類」を。